法学部

【活動レポート】若松 絵美莉 (法律学科4年)

「やる気応援奨学金」リポート(54) アメリカで国際関係学学ぶ(下) 出会いで実り多い留学生活に

はじめに

私は、「やる気応援奨学金(長期海外研修部門)」の御支援を頂き、アメリカテネシー州の東テネシー州立大学で10カ月間勉強をし、無事に留学生活を終えることが出来ました。帰国して数週間がたちましたが、留学中の生活が今でも鮮明に残っています。今回は後編として、春セメスターでの勉強、生活について御報告したいと思います。

契約社会のアメリカ

春セメスターはカフェテリアの食事をやめ、自炊をしようと考えていた私は、春セメスターが始まる前に、ミールプランをキャンセルするためハウジングオフィスに行きました。すぐにキャンセルが出来るだろうと安易に考えていましたが、そう簡単にはいきませんでした。まず、私は留学前から1年間のミールプランの契約を結んでいるため、今から契約を破棄出来ないと言われてしまいました。そして、ミールプランのキャンセルは出来ないが、違うプランに変更をす

るなら、手続きが可能だと言われました。少しでもミールプランの数を減らしたかった私は、ミールプランを週に10回からセメスターで75回に変更することにしました。そこで、その変更を裏付ける理由や資料を提出するよう言われたので、食事が合わないという趣旨の変更理由を書きました。その時にも、私はそんなに事を重大に考えておらず、変更の申請をすればだれでも変更出来るのだと思っていたのです。ところが、この申請は理由不十分で却下されてしまいました。もうセメスターも始まろうとしていたため、どうしようかと随分悩んだのですが、再提出することにしました。変更理由を書き直し、秋セメスターでお世話になったクリニックまで行き、クリニックの先生にも診断書のようなものを書いていただき、それも一緒に提出しました。その結果ようやく変更が出来たのですが、ここまでしなければいけないのかと本当に驚きました。

苦労続きの寮生活

私は秋セメスターからアメリカ人の1年生のルームメートと一緒に住んでいましたが、春セメスターから彼女の行動が日に日にひどくなっていき、悩む日が多くなりました。秋セメスターは、図書館に夜中までこもって勉強していたので、彼女と一緒に過ごす時間もそれほど多くなかったのですが、春セメスターからは自炊を始めたため、夜はかならず寮に帰るようになりました。また、冬の時期は気温がマイナスの日が多くあり、夕食の後に図書館まで行くのもおっくうになってしまい、夜は部屋で勉強することが多くなりました。しかし、彼女は私が勉強していても平気で友達を呼んでテレビを見たり電話をしたり騒いだりと、私に全く気を遣ってくれませんでした。そればかりか、シャワー後に部屋に戻ると夜中の2時を過ぎているにもかかわらず彼女の友達が来ていて、そのまま朝まで部屋にいたり、私が寝ようとしているのに大音量で映画を見始めたりと、このようなことが頻繁に続くようになりました。彼女の生活はどんどんだらしなくなっていき、共同で使う流しにヌードルが浮いているのに片付けず、そのまま何日か帰ってこなくなったり、私のスペースに空き缶を置きっぱなしにして片付けなかったりもしました。春セメスターでは、プレゼンテーションが10回以上、判例要旨や10枚のリサーチペーパーも3つ書かなければならず、毎日課題に追われている状態だったのですが、部屋にいても休むことも出来ず、彼女との生活にだんだん嫌気がさしてきました。特に勉強がうまくいかなかった時は、「こんな環境では」とすごく悩みました。友達にも相談し別の寮に移ろうとしたのですが、ハウジングオフィスにセメスターの途中では移れないと言われてしまいました。あと数カ月我慢しようとも思いましたが、この環境で課題が全部終わるかという不安とストレスで体調が悪くなってしまいました。そこで今度は寮長に相談し、同じ寮内でいいから部屋を変えてほしいと相談して、3月中旬にようやく1人部屋に移ることが出来ました。それからは、だれにも気を遣わずに生活することが出来たので、勉強も進み体調も良くなりました。

春セメスターの授業

春セメスターでは、もっと専門的な授業を学びたいと考え、3、4年生向けの授業を履修することにしました。また、秋セメスターの授業の経験から、上級生向けの授業の方がやる気のある学生が集まるので、自分にも刺激となるとも考えました。その分課題の量は秋セメスターの倍以上となり、本当に忙しいセメスターだったのですが、大変だった分得るものも多く、充実した勉強が出来たと思います。

私が履修した授業は、American Constitutional Law(アメリカ憲法)、International Law(国際法)、International Relations(国際関係論)、International Political Economy(国際政治経済)、Spanish(スペイン語)です。

アメリカ憲法は中でも1番課題の多かった授業でした。課題の1つは、10個の判例について判例要旨を書くことでした。毎回の授業では、2つか3つの判例を扱うのですが、授業で既に習った判例の判例要旨は提出出来ません。つまり、授業で学ぶ前に自分で最高裁の判例を読み、その判例の論点、背景、最高裁の判決、そして多数意見と反対意見を

書かなければなりませんでした。最初は最高裁の判例を読むことが本当に大変で、時間も掛かりとても苦労しました。しかし、スケジュール通りに判例要旨を提出しなければいけないため、何としても終わらせなければなりません。また、書き終わった判例要旨を友達に確認してもらっても、法律は難しくてよく分からないと言われてしまいました。クラス内でも課題の多さに履修を中止してしまう学生も多く、日に日に人数が少なくなる教室で、私も本当にこの課題をやりきれるかどうか不安になりました。しかし、法律は私の日本での専門であり、法体系の違うアメリカで法律を学ぶことは貴重な経験だと思い、歯を食い縛って課題に取り組みました。教授から、辛口のコメントをもらい、悔しい思いもしましたが、最終的に11の判例要旨を提出しました。

また、このクラスはオーラルインテンシブに指定されているクラスであったため、プレゼンテーションも5回ありました。プレゼンテーションでも、判例について判例要旨と同様の内容をクラスメートに説明しなければなりません。最初のプレゼンテーションでは、声が小さいと指摘されたり、パワーポイントのスライドの注意やアイコンタクトについての厳しい注意を受けました。その中でも、メモを見ずにクラスメートの顔を見ながら話すことは、法律単語も内容も難しかったのでとても大変なことでした。分かりやすいパワーポイントスライドを用意しても、アイコンタクトが出来ていないと注意を受け、何度も何度も練習しました。この授業は朝7時55分から始まるので、朝一番でプレゼンテーションをしなければならず、練習してもうまくいかないこともあり、悔しい思いをたくさんしました。しかし、よく考えると、プレゼンテーションがうまくいかなくてこんなに悔しい思いをしたことは今までありませんでした。それだけこのクラスに真剣に取り組み、努力したからこそこのような気持ちになれたのだと思います。最終的に、最後のプレゼンテーションでは良い点数を取ることが出来、教授にも「あなたはすごく成長したと思う」という言葉を頂き、勉強になりました。本当に課題が多く、最後の試験では5つのエッセイ問題に対し23枚のペーパーを書きましたが、多くのことを学び、良い成績を残すことが出来たので良かったです。

このクラスで頑張ることが出来たのは、最後まで履修をやめずに共に課題に励んだクラスメートの存在もありました。プレゼンテーションのうち、4つはグループプレゼンテーションだったため、ほかの学生と話す機会も多くありました。このクラスの学生のほとんどが、ロースクールや大学院への進学を控えた3、4年生や大学でもう一度勉強しようという社会人であり、私にとって彼らは刺激となりました。私がプレゼンテーションで同じグループだった学生は、朝、授業の前に娘を高校に送っていき、その後クラスに参加し、そして仕事へ行っているそうです。このクラスは課題が多いため、寝るのは毎日深夜であり、プレゼンテーションの前日は朝七時半まで課題に取り組んでいたこともあると言っていました。彼の忙しさに驚きましたが、社会人になってもこうして大学に戻って勉強している人と実際に会って話が出来たことは、将来のことを考える上で良い参考となりました。

国際政治経済の授業は留学以前には履修を予定していませんでしたが、秋セメスターの授業を通じて、経済を勉強することは国際関係学を学んでいく上で必要不可欠だということを実感し、履修を決意しました。クラスは学生が7人の少人数のクラスでしたが、元海軍の40代の学生や、中国人の留学生、スーダン出身の学生など異なるバックグラウンドを持つ学生が集まり、ディスカッションもたくさんし、とても楽しいクラスでした。中でもスーダン出身のクラスメートからはアフリカの話をたくさん聞くことが出来、とても勉強になりました。

ある日、クラスでカンボジアでの子供の人身売買のビデオを見た後、彼がアフリカでも同じことが起こっていると話し出しました。彼の意見を聞いた後、教授は彼がどのような生活をアフリカで送っていたのかについて尋ねました。彼の出身のスーダンでは、北部のアラブ人イスラム教徒と南部の黒人キリスト教徒が対立し、ダルフールではアラブ系の政府軍と民兵による非アラブ人の大虐殺があり、今も紛争が進行中という悲惨な状況にあります。彼は、スーダン南部で生まれ、政治家の父が殺された後エチオピアの難民キャンプに移ったそうです。しかし、そこでの生活はあまり良いものではなく、その後ケニアの難民キャンプに移り、そこで7年生活を送ったそうです。そこで彼は良い教育を受け、その後スーダン出身の難民を保護しようという団体の支援でアメリカへ移ることが出来たそうです。いったんはアメリカの民間会社に就職し、働いていたそうですが、彼の母がコレラで亡くなったのを機に彼はアメリカの大学で勉強することを決心し、現在に至るそうです。また、彼はスーダンの難民を支援するNGOの代表も務めているそうで、夏にはスーダンに帰ると言っていました。

彼は私に“Pat it Forward”という映画を薦めてくれました。これは、だれかに何か親切なことをしてもらった時、その本人に恩返しをするのではなく、それをだれか別の人にもっと大きな形で返す、というアイデアを考えだした少年の話です。彼は私に、「ケニアの難民キャンプではたくさんの人に助けられ、良い教育を受けることが出来た。だからその感謝の気持ちをスーダンで助けを求めている人々を助けることで返したいんだ」と言っていました。彼との出会いは、自分には何が出来るだろうと考えるきっかけにもなりました。私も今まで多くの人の支えがあって、ここまで勉強をすることが出来ました。それを生かして、世界に貢献したいと心から思います。そのためにも、今私がすべきことは残りの学生生活の中でより多くのことを学ぶことだと思います。この決意は、課題と奮闘したつらいアメリカでの生活を支えたものの1つでもありました。

春セメスターでは、スペイン語にも挑戦しました。私は中央大学ではドイツ語を第二外国語として履修していましたが、国連の公用語であるスペイン語かフランス語を習得したいと以前から考えていました。ちょうど仲の良かった友達がスペイン語を履修中だったので、春セメスターから彼女と同じクラスを履修することにしました。しかし、語学の授

業は1年間のカリキュラムのため、秋セメスターにスペイン語を履修していない私は、最初履修は出来ないと言われてしまいました。そこでスペイン語の学部のオフィスへ行き、どうしてもスペイン語を履修したい、また春セメスターが私にとって最後のセメスターであるためどうしても今回履修したい、ということを伝え、独学で勉強したスペイン語も披露し、クラスに追い付けるよう努力するのでどうしても履修させてほしいと訴えました。その結果、教授から許可を頂くことが出来、何とか履修することが出来ました。アメリカでの語学の授業では、リーディング、リスニング、スピーキング、ライティングのすべてを扱います。そのため、試験は文法、読解、聞き取りがあり、そのほかにもスペイン語でのエッセイ、プレゼンテーション、インタビューなどがあり、初めてスペイン語を学ぶ私には少し大変でした。しかし、このクラスではカルチャースタディーとして、メキシコレストランへみんなで行ったり、アメリカにおけるメキシコからの移民や労働者についての映画を見にいったりとたくさんのイベントに参加することが出来ました。

また、エキストラクレジットとして、週に1回、近くの小学校へ行き、小学1年生にスペイン語を教えるアクティビティーにも参加しました。このアクティビティーは、最初に子供向けのスペイン語学習ビデオを児童に見せ、その後一

緒に単語や表現を確認するという内容でした。最初は、英語で第二外国語のスペイン語を教えるということにとても不安を感じていましたが、子供たちの生き生きと学ぶ姿を見て、私もすっかり楽しくなり、毎週小学校へ行くのが待ち遠しくなりました。子供たちがなるべく興味を持って、楽しみながら学べるように、絵やカードを用意するなど毎回工夫して授業をしました。うまくいかない日ももちろんありましたが、最後の日には多くの児童が、抱き付きながら「ありがとう」と言ってくれて本当にうれしかったです。また、日本とは違うアメリカの小学校を見ることが出来たことも良い経験だったと思います。

アル・ゴアの講演会

この留学中、1番興奮した出来事は元副大統領のアル・ゴアの講演会に行き、彼のレクチャーを聴くことが出来たことです。アル・ゴアの父はテネシー州の民主党上院議員であり、アル・ゴア自身もテネシーで幼少期を過ごしたということから、今回東テネシー州立大学で環境問題についての講演会が行われました。こんな機会はめったにないと思い、友達と大興奮して講演会用のチケットを何十分も並んで手に入れ、当日も良い席を確保するために何十分も前に会場へ行って並びました。アル・ゴアはノーベル平和賞を受賞するなど、政治以外の活動においても注目を集めているため、大学の学生だけでなく、近所の人々も大勢来ていました。私は、アメリカでこんな有名人に会えるなんて想像もしていなかったため、どきどきしながらアル・ゴアが登場するのを待っていました。

彼が登場した時の会場の雰囲気は今でも忘れません。会場の全員が立ち上がって、会場が拍手と歓声に包まれ、それにアル・ゴアが手を振って応える姿はテレビの中にいるようでした。講演の途中でも、観客は所々で拍手をしたり歓声を上げたりもします。彼もそれに応えるかのように、堂々と環境問題の大切さについて語り掛けていました。冒頭では冗談で会場を笑わせ、しかし、本題に入ると真剣に環境問題について訴える、そんな彼の講演は素晴らしかったです。しかし、それ以上に日本では体験することの出来ないだろう、アメリカならではの雰囲気を体験することが出来たのが1番の思い出となりました。

最後に

この留学中、本当に色々なことがあり苦労もたくさんしました。それでも、この留学を最高の形で終えることが出来たのは、多くの方のサポートがあったからだと思います。また、留学を通して得た知識、経験、そしてさまざまな人との出会いが私を大きく成長させてくれました。これからは、この留学で得たことを生かして、社会に貢献していけるよう、日々頑張りたいと思います。最後になりましたが、長期留学の機会を与えてくださった「やる気応援奨学金」の先生方、奨学金の御寄付をしてくださっている方々、留学の相談に乗っていただいた先生方、法学部事務室、国際交流センターの方々、そして私のわがままを聞いて留学を応援してくれた家族に、この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

草のみどり 228号掲載(2009年8月号)