法学部

【活動レポート】橘 千鶴 (法律学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(7) 帆の街・オークランドで学ぶ 語学と共に司法・福祉制度も

今年の春、「やる気応援奨学金」を頂く機会に恵まれ、2月20日から3月22日にかけてニュージーランド最大の都市であるオークランドに滞在した。夏の週末ともなると、ヨットやボートでにぎわう美しい湾に囲まれたこの街は、“City of Sails(帆の街)”という愛称でも親しまれている。1カ月に及ぶこの非日常生活の中で得た数々の経験と問題意識は、現在の私の在り方や活動へと大きくつながっている。
2年前に短期留学で訪れた際の友人との再会を求め、自分を試す場所として迷わず選んだオークランド。自主計画によって主体的に街とかかわった結果、私に映ったこの街はより力強く生き生きとしていた。
主体的に街とかかわるということは、それだけ問題に遭遇する確率も増すということ。バスを降り間違えて電話も地図も店も歩行者もいない場所で1時間以上さまよったり、通学中のバスの中で感情的になった男が運転手に襲い掛かり怖い思いをしたり、飛行機に乗り遅れ掛けて交渉をしたり、ほかにも多くの予期せぬ事態に直面し、皮肉にも問題解決能力を磨くこともあった。
また、ニュージーランドならではの雄大な自然を堪能し、再会した友人との余暇を満喫、国境を越えた新たな友人たちとの交流も楽しんだ。そうした中でも今回は主に、生活の合間を縫って垣間見た司法制度や福祉制度を切り口に活動を紹介したい。

非日常における私の日常

ホームステイをしながら語学学校へ、それが私の非日常の中の日常だった。典型的な語学留学である。ケープタウンから来た女性ばかり親子3代の親切な家庭で勉強を応援してもらいながら、中国人、韓国人、タイ人、と次々と替わりいくルームメートたちと仲良く助け合って生活した。最大2時間もの通学を乗り越えさせた原動力は、紛れもなくこの良き人間関係だった。

語学学校での日々-文化の多様 性の中に生きて

語学学校はオークランド大学の付属機関だった。そのため、大学の施設も使えるほか、自己計画活動実現の際、身元を説明しやすく助かった。
午前クラスでは、基本的な英語の勉強に加え、週1回インターネットを利用して仲間と連絡を取りながら情報収集を進め、ホームページや広告、模擬旅行計画を作成するコンピューターの授業があった。午後は、模擬会議や模擬社内プレゼンテーション、ディベートなどを通して、就労経験者が多い中でビジネス英語を勉強した。
私のクラスには、中国、台湾、韓国、ロシア、イラン、チリ、サウジアラビアから、クラスの枠を越えれば、フランス、タイ、タヒチ、エクアドル、スイス、ブラジルから生徒が集まった。彼らとの交流の中には、文化の差異を尊重し合うのみならず、その違いを積極的に楽しむ雰囲気があって心地良かった。
そうした中では、あまりに多く見られる相違点より、かえって共通点が面白い。例えば、サウジアラビアとイランの話や、日本・中国・韓国・台湾間では時に漢字を共通項に筆談をすることも可能であれば、ことわざ、はし、伝統行事、逸話などでも似通う面がある。私の名前もその1つで、名前の由来である千羽鶴の習慣は、中国や韓国にも良い慣習として存在するようで、いい自己紹介の話題となった。
こうした体験によって、日本文化の源流を体感すると共に、自分のアイデンティティーや日本のさまざまな「位置」を再確認することが出来た。しかし、これらとは反対に、一部の日本人がとかく欧米に目を向けがちで、時にアジアの存在を忘れてしまうのもまた事実だ。それのみならず、アジア諸国を軽視することさえある。
大変残念なことに、こうした一面に意外にもここで間接的に触れることとなった。というのも、同じアジア人であるタイ人の友達の住むアパートの管理人である日本人が、その友達に「ここは白人の住む地域だから、そうやってタイや中国のアジア系の友達ばかり連れてこられると迷惑が掛かって困るのよね」と言い放ったというのだ。私やほかの日本人留学生にとってこれは大変ショックであり恥ずかしかった。我々がアジア人だという意識を欠いた発言である。
さまざまな過去を経て、幾つかのアジア諸国と日本の間に溝があるのは事実だ。しかし、国交の関係修復に対して地道なフェース・ツー・フェースの関係が持つ力を信じたい。私は、日本の過去を踏まえたうえでも、同じ人間として他国の人々と対等な友好関係を築けるよう、こうした人種の障壁には極力動じない人間になりたいと思う。
実際、色々な国の人々と話をしていて、文化の差異を感じることもあるが、同じ人間として共通する感情に気付くこともある。そこから、文化とは人間の普遍性を差し引いたすべてなのだと自分なりの答えにもたどり着いた。つまりは、文化を知るということが、人間を知るということにもつながったのである。この1カ月の異文化交流は、私に「日本」とは何かを知らしめるほか、どこまでが「人間」なのかを示唆してくれた貴重な時間でもあったのである。

高等裁判所での傍聴

水曜の昼下がりはいつも休校である。それを利用してフェイフェイという台湾人の友達を連れて高等裁判所の傍聴へ出掛けた。
台湾で裁判官を務める叔父を持つ彼女と、親戚の日本への留学話や日本と台湾の関係など興味深い話を交わしつつ高等裁判所に入ると、だれもいない受付が目に飛び込んできた。1、2年前に出来たばかりの新しい高裁なのだが、私が持っていた近代的で張り詰めたイメージとは違って、どこか和やかで、ある意味開放的でさえある。しかしながら、受付にだれもいないため、逆に傍聴の仕方や法廷の場所すら分からず戸惑った。
しばらくすると、裁判が幾つか終わったのか黒いマントを着た裁判官らしき人々が奥から大勢出てきた。それぞれがコーヒーを飲んでおしゃべりをしてリラックスしている。そこに話し掛け傍聴したい旨を伝えると、すぐ殺人事件の裁判へと誘導してくれた。後で分かったのだが、案内してくれたのは検察官であり、高等裁判所では裁判官も検察官も同じような黒いマントを羽織る。途中、検察官の計らいで進行にまつわる話し合いの経過まで傍聴することが出来た。
この法廷でほかに傍聴している人々は1、2人だった。書記はパソコンで行われ、陪審員席が目立つ。裁判官の頭上には、マオリと白人が手を結ぶニュージーランドのシンボルが掲げられ、陪審員は全部で12人の決まりである。しかし、今回は何かの事情により出席者は11人だった。法曹関係者や傍聴人が入り口を同じにするのに対して、彼らは隔離されていた。
途中、英語が流ちょうでない証人が通訳の必要性を告げ忘れたことにより裁判を滞らせたことを裁判官がとがめるような光景も見られたが、その後は、検察官による証言の紹介が一部始終を占めた。陪審員制度であることから、常に陪審員に向かって分かりやすく検事が話し掛けているのが印象的だった。1人の検事が朗読し、ほかの検事が時折修正を入れる形式が採られた。
陪審員の集中力を考慮して、途中休憩なども与えられたが、今回の事件では目撃証拠が大量にあったために判決までには至らず、審理は明日に持ち越されることになった。今日終わらなければ明日という姿勢が、陪審制を採らず、裁判の長期化が問題となっている日本では考え難く、大変新鮮である。
しかし、日本の裁判員制度に先立って陪審制を導入したこの国に全く問題がないわけではない。陪審制が裁判の迅速化を妨げるとして、陪審員を11人に削減することや、1人の反対者までは許容することが検討されているという。

地方裁判所

次の水曜には、マナナという法学部卒の中国人の友達と地方裁判所の傍聴へ行った。
裁判所に組み込まれた罰金徴収窓口などを通り過ぎて2階へ上がると、高等裁判所とは打って変わって、裁判室の前は開廷待ちをする人々でいっぱいだった。深刻な形相で時を待つ彼らは、社会見学の私たちとは雰囲気を明らかに異にしていた。それもそのはず、彼らは、これから行われる「流れ裁判」とでも形容されるのだろうか、それに参加する被告人やその家族や弁護士だったのだ。
ニュージーランドでは裁判の迅速化を図るためにも、窃盗犯や飲酒運転などの軽犯罪者は開廷した一つの法廷内で次々と裁かれていく。そのため、開廷中には多くの弁護士や被告人が頻繁に出入りする。彼らと傍聴人の座る席も全く同じ扱いであり、実際私の周りも彼らで埋め尽くされた。軽犯罪ゆえの扱いであろう。
3階には陪審員を必要とする法廷があり、犯罪の内容によって大きく2種類の裁判形態が存在することをうかがわせた。また、私のキウィ(ニュージーランド人のこと)の友達の母親も司法通訳をしているが、被告や原告が利用出来るように通訳派遣室があるのもさまざまな国から人が集まるオークランドならではである。ここでは、親切な警備員の方がニュージーランドの法制度に関するパンフレットを下さり、多くの疑問解決に役立った。

法律事務所訪問

この直後、私は遂に法律事務所を訪問することを許された。私はこれに関して頼れるコネクションを持っておらず、初めは日本から、ニュージーランドの裁判所のホームページを通じて弁護士を検索し、連絡を取ろうと図ったが、やはり顔の見えない関係では信用が得にくい。
そこで現地に入ってから、ホームステイコーディネーターのスーザンの助けを借りて実現へと至ることが出来た。彼女が紹介してくれたのではないが、交渉の仕方を一緒に考えてくれたのだ。まず、電話帳の弁護士業欄から受け入れてくれそうな小さめの弁護士事務所を選んでメールを送り、返事が来た所に電話をして訪問を取り付けた。

受け入れてくれたのはバーバラ弁護士事務所。そこではボスのバーバラのほか、2人の弁護士が離婚や移民問題に取り組んでいる。
弁護士事務所の様子は日本と異ならない印象を受けたが、バリスター及びソリスターであるクリストファーが、傍聴に際してわいた疑問などについて1つ1つ丁寧に説明してくれた。また、働いている様子や顧客リストやニュージーランドの法学書物などを見せてくださったほか司法試験やロースクール、日本の法律制度などの話もして、大変有意義な時間を過ごすことが出来た。

オークランド大学ロースクールの聴講

続いてロースクール見学。法学部で英語を教えているニックス先生の友人であるハヨとスーザンの協力の下実現、運良くも第1回のニュージーランドの法制度という授業を聴講した。
もちろん教科書は持っていないので、聴講生だと告げて隣の学生に見せてもらった。教科書はオリジナルのもので、横型のB5サイズという私にはなじみがないものだ。法体系の説明のほか、事例問題を黒板に列挙して考えさせる点は、我々の日ごろの勉強とも共通する。ただし、1番後ろに座った学生からの積極的な質問や学生で埋め尽くされた教室の熱気は学部の授業にはないように感じた。
その後は、ロースクールの図書館を見学、さまざまな外国法の書物の中、日本の法律本は見付からなかった。やはり、イギリスによる植民地時代の流れを受けて、この国の法律は英米法の流れを汲む。そのため、英米やカナダの法律書が極めて多かった。

タカプナホスピス-死との向き合い

更に偶然の出会いが1つの機会をもたらした。当初の計画にはなかったが、空港で出来たほかの学校へ通う友達がホスピス見学への同行を提案してくれたのである。
残念ながら日本のホスピスを訪問したことがなかったが、恐らく日本と違うと思われたのが患者の利用形態である。
ニュージーランドでは多くのホスピス利用者が死を迎える場所として自宅を選ぶという。ホスピスに宿泊するのは、家族が介護に疲れた場合や新しい投薬に挑戦する際、万が一の容体急変に備える場合で、平均2~3日間の連泊がほとんどだそうだ。そのためベッドも8つしかない。また、多くの人々がオークランド郊外からやってくるため家族用のキッチンなども用意されている(この説明からホスピスの数がそれほど多くないと推測した。)。
では主な活動は何かというと、グリーフカウンセリングだという。身内の死を受け止めなければならない遺族が集まって意見を交換し、深い悲しみを分かち合って立ち直ろうというものだ。年代別に分かれ、悲しみを乗り越えるまで続けていく。あくまでもホスピス利用客の主体は、残されて思いを受け継ぐ家族であるという理念が見て取れる。
また、活動資金は、政府からの援助金やボランティアの方々による資金調達活動(主に中古品の販売利益)によって支えられているという。自宅で家族と過ごす時間や残された人間の気持ちを大事にする彼ら。その姿を通じて、ニュージーランド人は温かくて穏やかな気質を持つといわれるゆえんを改めて感じた。

最後に

こう振り返ってみても、いかに多くの方々の理解や援助によって私の日々が支えられていたのかを再認識するばかりである。こうした機会を私に与え、実現へと導いてくださったすべての方々にこの場を借りて心から感謝したい。
また、新たな経験、問題意識、価値観を得たことで世界が広がり、その中で自分を見失い掛けて戸惑ったこともあった。しかしその結果、自分を更に問い直すことが出来たし、今回の活動で実現し切れなかった部分は現在に引き継がれている。学んだことが思わぬところでつながることさえある。無駄な過去など何もない、それがマイナスに思えたとしてもいかにプラスに変えていけるかが真の生きる力だと感じた。
こうして今回心に得た将来への小さなともしび。さまざまな人が私を支えてくれたように、私も他者へ手を差し伸べられるように心掛けながら、ともしびを生かせるように未来を切り開いていきたい。

草のみどり 181号掲載(2004年12月号)