法学部

【活動レポート】茂木 紗都子 (政治学科4年)

「やる気応援奨学金」リポート(67) ドイツ短期語学留学 「シュタージ」を事例に人権について考える

はじめに

今年の2月28日から3月31日の約1か月間、「やる気応援奨学金」を頂いてドイツのベルリンとライプチヒに滞在しました。語学研修は約3週間、ベルリンの語学学校で行い、ベルリンとライプチヒで、私の「やる気」における研究テーマ「東ドイツの秘密警察、シュタージは東ドイツの人々にどのような影響を与え、今なおどのような問題を残しているのか」のために活動しました。

「やる気」に応募するまで

「やる気」の制度でドイツに留学したいと思ったのは、大学1年生の時。当時は、外交官になりたいとか外務省に勤めたいとか、外国と深く関わる仕事に憧れていましたし、ドイツ語が好きだったからと思います。ちなみにですが、ドイツ語に関心を抱いたのは、彼此10年前。英語のラジオ講座を録音したテープに、偶然入っていたドイツ語を、「とても発音のきれいな言語だな!」と思い、即気に入りました。ドイツ語を本格的に勉強し始めるということはしませんでしたが、その時からドイツ人作家の本を読んだり、第二次世界大戦に関するテレビを見たりと、ドイツに興味を持ち始めました。
大学一年の終わり頃には、方向転換して、もう「法律家になりたい」と決めていましたが、将来、いわゆるプロボノ(公共の利益のための無料奉仕)活動や人権活動もやりたいと思っていること、ドイツに留学したいという気持ちがなかなか消えなかったこと、在学中にしかできないことをやりたいと思ったこと等々の理由から、大学3年の時に受けていた、とても興味深かったドイツ史や政治学に関する授業をヒントにテーマを決定し、「やる気」に応募しました。

シュタージとは

東ドイツ(1949-90)の諜報機関であった国家保安省、"Ministerium für Staatsicherheit"の通称(Stasi)です。東ドイツ市民を徹底的に監視し、反体制的な人に対しては、暴力、逮捕・監禁、嫌がらせ等、人権侵害を行ってきました。IM(Inoffizieller Mitarbeiter)といって、正規のシュタージ職員ではないが、情報提供者として人知れず自らの友人や家族のことをシュタージに密告していた者まで存在しました。このシュタージ職員、IM等密告者や情報提供者は、東ドイツ市民の6.5人に1人存在したとも言われています。
今回、シュタージに関するテーマを選んだ理由は、授業で学んだことに加え、東ドイツという国がなくなってから、約20年経った今でも多くの問題を残しており、問題に対してどのように向き合っているのかを知りたいと思ったからです。これをテーマとして、東ドイツで起こった事実を知るために博物館等を訪ね、また、今なお残る影響を調べるために市民運動家の方にインタビューするなどの方法でアプローチしてきましたので、以下、ご紹介させて頂きたいと思います。

ベルリンでの活動~臨時収容所施設博物館~

1953年、東ドイツや東ベルリンから西ドイツへの逃亡者を一時的に受け入れるために、西ベルリンに建設されたマリーエンフェルデ元臨時収容所施設に行きました。この施設は、逃亡者の受け入れ審査、宿泊部屋や衣食住、精神的・身体的ケアの提供、西で暮らすための手助けが行われた場所なので、シュタージの東ドイツの人々への影響や逃亡者の収容所での暮らしぶりが分かるだろうと思ったためです。事前に連絡を取り、博物館の職員の方にもお話をお伺いしました。
東の体制に不満をもった多くの人々は自宅に多くの物を残し、監視の目を潜り抜け、1953年以降、真っ先にこの施設に向かったといいます。西ベルリンにあるこの施設なら安心、というわけではありません。シュタージが施設の周りや施設の中に潜んで、逃亡者や西側の情報を得ようとしていたからです。もちろん、シュタージを敷地内に入れさせないためにセキュリティーチェックは行われていましたが、シュタージは、「敵」つまり反体制的な人や西側を監視し、調査するために存在するので、セキュリティーチェックどころでは怯みません。宿泊部屋にいる人がスパイの可能性もあったので、特に自分のことを話すことを禁じられたといいます。「私は何処どこの地下トンネルから西へ脱出した」なんて話してしまうと、それをスパイから聞き出したシュタージによって、トンネルを埋められてしまい、トンネルを掘った人が逮捕されるといったこともあったそうです。
逃亡者の受け入れ審査は、1人10日から40日かかりました。この審査に落ちた人は罰せられるわけでも追い返されるわけでもありませんでしたが、いわゆる不法入国者扱いで間に合わせの仮泊施設に移されました。無事に西へ入国した人の中でも、西での生活がうまくいかず、再び東へ戻った人もいます。
このように東ドイツの体制やシュタージは、第二次世界大戦後、人々の人生を再び大きく変え、困難を与えたと思います。マリーエンフェルデ博物館では、このような事実を子供たちに伝えるために、他のベルリンの博物館と連携して次のような教育制度を設けています。小学生には、写真や遺品で歴史に触れさせ、小学生より上の子供たちには、逃亡経験者などとともにディスカッションをさせたり、調べたことをパワーポイントを用いて発表させたりします。

私は日本で、「多くのドイツの若者にとって、シュタージは、もはや退屈な教材であるし、シュタージを知らない若者は多い」というドイツのニュースを見たのですが、一方で、博物館等の施設や被害者の方々は、若者に伝えるためにさまざまな努力をしているように思います。それは、当博物館の方が、一学生にすぎない私の資料集めの為に快く手を貸して下さいましたし、他のシュタージ博物館では、シュタージに関する厚めの冊子を無料で手に入れることができましたし、シュタージによって逮捕された人が入れられた元監獄では、自分の体験を冗談も交えながらも一生懸命語る被害者の方がいらっしゃったからです。
ベルリンでは、東ドイツに対して何らかの形で反発した人達はどのような生活を強いられてしまったのかという事実と、それを後世にまで伝えるための活動を知ることができました。

語学学校

①先生の評判がよく②日本人が少なく③少人数、という3点から選んだのが、「タンデン」というプレンツラウアーベルク地区にある私立の語学学校です。授業は会話が中心。与えられた文を読んで要約して皆に伝えたり、自分の国の環境対策について紹介し合ったり、グループを作って物語を作ったり…。まわりの生徒はよく発言します。なので、「何でもいいから話す!」ということを常に心がけました。
語学学校最初の1週間くらいは、授業が大変で、朝、少し憂鬱な気分にもなりましたし、授業後は非常に疲れて、生徒たちが学校の外で立ち話している中を、「バイバイ!(Tschüs!)」と言って通り抜けて、すぐ滞在先に戻り、勉強することが多かったです。

私のリスニング力はあまり良くなかったので、最初、まわりの生徒のイタリアやスペイン訛りのドイツ語を聞きとることにも苦労し、(もちろん私も訛っていますが)休み時間は、学校近くのカフェやパン屋さんにクラスのみんなと行って軽食を取りに行くのですが、その時間でさえも授業時間のように思えたこともありました。
しかし、残りの語学学校生活は、言葉の慣れや友達と仲良くなっていくことによって、とても楽しくなっていきました。授業後、友達と一緒に博物館や美術館、お城やレストラン、クラブに行ってみたり。短い期間でしたが、「ドイツの大学で勉強したい」「ベルリンで働きたい」と、さまざまの夢を持った、色々な国の人達とドイツ語を学び、語り合い、刺激的で充実した時間を過ごすことができました。

ライプチヒ①~反体制運動家Claudiaさんの活動~

2009年3月、「やる気」のドイツ語部門で留学したある友人の紹介により、Claudia Iyiaagan-Bohseさんにお会いすることができました。東ドイツ時代、教師をされていたClaudiaさんは、体制における不正を公然と非難しようとしたことから、拘禁等の被害にあわれました。その被害にも屈せず、自らの身に起こったことや体制下で起こった事実を広く明らかにし、現在にも残る問題を指摘し、再び、今の社会が東ドイツに戻らないように、民主主義のために、プラカードを掲げてデモをしたり、ハンガーストライキをしたり、毎日毎日活動しておられます。ライプチヒの約1週間滞在中、Claudiaさんのお仲間にお会いし、裁判所見学にも同行させていただきました。
私たちが向かったのは、ライプチヒから車で約2時間のツビッカウ(Zwickau)地方裁判所。裁判の案件はおおよそ次の様になります。元IM(Inoffizieller Mitarbeiter)であった方が、Zwickauの牧師さんに対して、シュタージのスパイ(コードネームで活動していた)の実名をあげて、シュタージの活動に関する展示の開催していたことに対して、差し止めを請求し、展示は一時中断していました。それに対して、牧師さんは、実名をあげて展示をすることは間違っていないと裁判を起こし、私達は、その裁判の判決を見学しに行ったのです。報道陣が大勢詰め掛け、傍聴席は足りず、裁判終了後にはラジオで判決内容が流されており、この裁判は世間にも注目されていたようです。
傍聴席には、主に市民運動家の方々、東ドイツ時代を知っている年配の方、そして被告人に監視されたことのある方。判決は、その時点においては、原告側の主張が通りました。判決に対して、傍聴席の多くの人が「ブラボー!」「すばらしい判決だ!」と叫んで歓びの声をあげる一方、「被告人にとって十分な打撃になったので、被告人に賠償を求めるべきではない」という慎重な声もあったといいます。将来のためにも、東ドイツで起こった過去の出来事を明らかにすることは必要だけれども、明らかにすることによって影響を受ける、IMのことも考えなければならない。私はとても複雑な気持ちになりました。
この裁判の翌日、別のシュタージに関する裁判がライプチヒであったそうです。シュタージに関する裁判は挙げれば限がないほど未だにたくさん提訴されているのです。Claudiaさんは言います。「もし権力に対して反発していなかったら、今はもっと良い生活を送ることができただろう。しかし、例えば、今でも元シュタージや東ドイツの重役は権力の座にいる。保育園や幼稚園にもいる(つまり、子供たちの教育に東ドイツ時代の教育の影響が出てしまう)。長く独裁が続いたこの国は再び東ドイツに戻りかねない。だから私は、民主主義のために活動しなければならない。それに何の不安も感じない。仲間もいるし、私たちは重要で必要な仕事をしているのだから」と。自らを犠牲にしても、社会のゆく方向性を変えたいと日々努力されている姿に感動させられましたし、自分が正しいと思うことを口にし、勇気をもって行動されている姿には感服させられました。その一方で、東ドイツが残した問題は未だに多く、それを解決するためには大変な労力、努力が必要だということを、Claudiaさんの活動に同行して思いました。

ライプチヒ②~シュタージ博物館~

"Runde-Ecke"と呼ばれ、かつて国家公安省秘密警察ライプチヒ地区本部の建物であったシュタージ博物館を訪問しました。博物館の中には、シュタージがスパイとして活動する時の変装道具である化粧品や鬘や髭、監視用に細工された下着やネクタイ、ワイシャツに埋め込まれた小型カメラ、監視対象者をさまざまな角度から写した白黒写真、さらにはシュタージが検閲した手紙をもう一度きれいに封を閉じるための道具等が展示されています。教育と称して子供たちに行われた暴力や、1990年前後行われたシュタージ文書(監視対象者の行動等を詳細に記録した文書)を隠したということに関する資料を見ることもできます。シュタージが実際どのような道具を使って、監視、人権侵害活動をしていたのかを学ぶことができました。
この博物館を運営している委員会の方々は、被害者の相談に応じたり、研究者や学生には情報を提供しているという情報を得ていたので、日本で事前にメールを送り、訪問したのですが、質問をすることを断られてしまったということがあったのは、少し残念でした。

ライプチヒ③~写真家Gerherd Weberさんのお話~

イプチヒ中央駅から電車で約40分のところに、グリンマ(Grimma)という小さな町があります。そこで、東ドイツ時代のグリンマの人々を撮影し、グリンマだけでなく、ベルリンやニューヨークでも展覧会を開催されたというGerherd Weberさんにお会いしました。平山令二先生のご友人であるDorothea v.Belowさんにメールで仲介をお願いをし、今回お会いすることができました。
東ドイツ時代の写真と聞くと、暗い、怖いイメージがありますが、Weberさんが主に撮られ、重要だと思われている写真は、東ドイツで普通に生活する人々の笑顔の写真でした。Weberさんは、「確かに独裁体制はよくなかった。しかし、東ドイツ時代は自分の人生そのもので、とても大切な思い出。大切な家族と会うことができた。体制に背かなければ、監視対象にはならない(グリンマにもシュタージによる監視体制は敷かれていた)。普通に暮らせていたんだ。貧しかったけどね。シュタージとか暗いイメージばかり持たないでほしい」と言います。

Weberさんの言葉は、「西の資本主義社会は嫌だ、仕事場も住む所もあった東ドイツ時代に戻りたい」と懐かしむ、いわゆる「オスタルギー(Ost+Nostalgie)」とは少し違って、東ドイツというと「シュタージ」「独裁国家」とすぐに悪いイメージに結び付けられてしまうことへの反発のように捉えることができると思います。東ドイツ時代の膿を出して、前に進もうとされている市民運動家の方々からすれば、東ドイツが悪いイメージに捉えられようとも、そのようなことはどうでもよいとおっしゃるでしょう。東ドイツに対する異なる見方を、東ドイツを生きた方から直接お聞きすることができました。

おわりに

シュタージに関するテーマで活動して、人々の心の中にまで強い影響力を残してしまう一時の権力がいかに怖いか、ということを具体的事例を通じて知ることができたように思います。悪いことはしていないのに、シュタージに言いがかりをつけられて、牢獄に入れられたら、すごく悔しいけど、もうどうすることもできない。3畳の暗くて冷たくて狭い牢獄に6人も押し込まれてしまうことも。そして、権力が残した問題を解決するには、神経をすり減らすような人々の努力が必要であるということ。その問題に対してさまざまな見方があり、解決しようとする際に、新たな人権問題にぶち当たることがあるということを目の当たりにしました。

将来、法律家として、Claudiaさん達のような活動の手助けをしたいと、なお一層強く思うようになりましたし、コミュニケーションの手段の1つとして、ドイツ語の勉強をこれからも続けていこうと思いました。
最後になりますが、ドイツで活動するにあたって、たくさんの方々のご支援を頂きました。授業後の時間やメール等で、アドバイスを下さったり、活動にあたっての多くのヒントを与えて下さった先生方、いつも相談にのってくれた友人、そしてドイツでお世話になったたくさんの方々に、この場を借りて深く御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

草のみどり 241号掲載(2010年12月号)