法学部

【活動レポート】佐藤 浩史 (2001年入学・法律学科)

活動データ

・シカゴ大学ロースクール見学、チーズ工場でのホームステイとインターンシップ

・2002年9月2日~9月6日 : シカゴにて大学のリサーチとロースクールの見学
2002年9月6日~9月20日: チーズ工場でのホームステイとインターン

・2002年度(英語分野)

活動の概要と成果

奨学金を手に入れた私は、AA156便に乗るため、朝っぱらからいろいろ準備をし、(というのも忙しくてあまり準備ができなかったのである)クレジットカードの口座に現金を振り込むなど手続を終え、無事に成田空港へと向かった。なお、お金を節約するためバスなどは使えず、京王線と山手線と京成線を使うということになったが、これによって大幅に体力を消耗してしまった。日暮里駅にはエスカレーターがなかったのである。シンドラー家(チーズ工場のオーナー家族)へのおみやげを満載していた私のスーツケースは非常に重く、空港への手段へ自家用車がメインとなりつつあるのももっともであると感じていた。
 成田空港に着き、チェックインを済ませ、ゲートをくぐる。そこで無情にも電子音が鳴り響いた。係員が近づいてくる。どうも私がいつも鞄の中に入れていた万能ナイフ(はさみとかドライバーとかが中に納められている小型ナイフ)が引っかかったようである。説明によれば、アメリカン航空は宅配便で届けるサービスをやっていないため放棄承諾書にサインしてくれとのこと。泣く泣くサインした。このように無事?に出国審査は通過、後は離陸のみとなった。
 私は飛行機が苦手である。というのもどうしても落ちるような気がするからだ。前に家族で名古屋から沖縄旅行に行ったときもよりによって主翼の横の席だったため、主翼が風に揺れるのを見ながら神に祈ったものである。今度こそ落ちるのではないか。しかしながら大方の予想通り、飛行機は無事に飛び立っていったのであった。

 途中色々あったのだがとにかくシカゴオヘア空港に到着、地下鉄でダウンタウンへと向かった。涼しい。日本を出るときは猛暑であったが、シカゴの9月の最高気温は23度。秋が最もよいシーズンである。なお、冬には気温が最低12度まで下がる上に湿度が低いので屋外で深呼吸すると肺が凍って大変なことになるらしい。
 今回私が泊まったのは一般のホテルではなくユースホステルである。ユースホステルといえば汚いことで悪名高いが(もちろんそれなりに安い)、アメリカでもワシントンとシカゴ(2001年から)のユースホステルは非常にきれいだと評判なのである。ちなみにユースホステルというのは安さを追求した宿のことで、今でも15ドルで泊まれるところとかいろいろある。チェックインをした後、カードキーを渡された。このカードキーがないと部屋に入れないばかりか、階段の扉が開かない、ランドリーに入れない、エレベーターは来てもボタンが押せないなど防犯設備は完璧である。シカゴに行く人があったら私は第一にこのホステルを勧める。また、ユースホステルは情報が非常に充実しているため、シカゴ市内でどんなイベントが行われているかすぐに分かる。野球のチケットなども簡単にとれるので、情報源としてもかなり心強い。ほぼ連日イベントが行われているシカゴ市では、退屈することは全くなく、9月1日でジャズフェスティバルが終わっているのが私には痛恨であっただけだった。ただアメリカではアルコールは21歳からで、また管理が非常に厳しいのでそう簡単には飲めない。従ってジャズバーなどにもIDを提示しないと入れない。シカゴを楽しむなら21歳になってから行くことを勧める。
 さて、ホステルといえば相部屋である。私の部屋は6人部屋であった。部屋にはいると大抵誰かいる。「Hello」から始まり色々自己紹介などをしたあと、シカゴの情報を交換する。非常に便利である。金庫もあるので(ただ南京錠を自分で買わないといけないが)防犯上の問題もない。私がホステルに泊まった4日間、312号室で出会った人は、韓国人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、中国人と多種多様であり、大変興味深い話を聞けた。このように世界各国から集まる人と話をできるというのもホステルの強みであろう。
 実は私の誕生日は知る人ぞ知る9月4日であり、はからずもシカゴで迎えることとなった。この日、312号室では非合法なアルコールパーティーが開かれた。感謝の念で一杯である。それから、アメリカ行きの飛行機ではどんなにおもしろい映画がやっていようがどんなにおもしろいゲームが遊べようが絶対に寝ておくべきである。私はシカゴ美術館で睡魔におそわれ、ホステルに帰るやいなやすぐに寝てしまって観光時間が4時間減ってしまった。
 なお、シカゴ市は最近観光に力を入れていて、スウィングとブルースの発祥の地として多様なイベントを行っている。ジャズフリークの私にはもってこいである。もちろん音楽以外にも、シカゴには高層建築が数多あるため、むしろ新宿西口よりも高層ビルが乱立しており、世界で2番目に高いシアーズタワーは110階建て、443メートルの高さを誇る。また、シカゴ美術館はメトロポリタン、ボストン美術館と並ぶアメリカ3大美術館の一つであり、30万点の収蔵がある。なお、火曜日は無料である。ゴッホ、セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ピカソなど非常に有名な絵画がたくさんある。全部まわろうとしたら1日では足りないかもしれない。科学産業博物館には、人体の輪切り(本物)があるし、フィールド自然史博物館には世界最大のティラノサウルス・レックスである「スー」の骨組みが展示されている。(ここには武器のコレクションがあるのだが、その中で日本の鎧は異色を放っていた。←しかし大人気)

 さて、シカゴの観光も済んで、9月6日シカゴ大学を訪れた。アメリカの大学というのは大抵そうだが、大学自体が一つの町となっている。(筑波大学で絶賛参照中)このシカゴ大学は調査研究を目的とした大学で、ノーベル賞受賞者は60人以上とハーバードの約2倍である超エリート校である。さて、私がシカゴ大学を訪れたのは他でもない。ロースクールの授業を見学するためなのであった。ロースクールの場所を探すのに20分もかかった。なにせ自転車もないものだから歩いて移動していたため、最初に道を聞いた図書館(ジョセフ・ライブラリーと呼ばれ、収蔵図書数500万冊以上、しかもシカゴ大には図書館が7つもある)から15分も歩かなければロースクールに到着することができなかったのである。やっと到着したロースクールは、建物がガラス張りになっており、ほかの古い建物とは一線を画してそびえたっていた。受付で日本からロースクールを見学したい旨を伝える。忙しくて案内はしてもらえないということだが、自由に見学して良いとお墨付き(サイン付きか?)をもらった。フレッシュマンは9月1日から入学したわけであり、周りの人の服装もスーツが多かった。私服との割合は半々といったところであろうか。
 授業までは少し間があったのでロースクールの中を見て回るとしよう。まずは講義部屋を見る。ロースクールの建物は新しいのだが、かなり使い込まれた古い木の机が階段状に並べられていた。150人収容できる。この伝統ある教室は実に雰囲気が良く、ぜひこんなところで学びたいものだと感じた。次にゼミ教室を見学する。ゼミは大抵10人ぐらいでやるらしいのだが、席は教壇を中心に半円状に並べられていた。非常に発言しやすい構造だと感じた。中大の6号館7階のゼミ室を縦横反対にしたような感じである。教室には本棚が備え付けられていた。さらに、ロースクールの中には模擬法廷があり、見学させてもらうことはできなかったが、外から見る限りかなり凄そうである。裁判を扱った映画なら法廷の場面はいくらでもあるからよく見て欲しい。アメリカの法廷は日本とは少し異なっている。いずれにしてもシカゴ大のロースクールは全米でもトップ5に入るほどの実力を持っているが、その評に恥じぬ貫禄を感じさせる建物構造なのであった。
 授業時間になったので他の学生に紛れて講義を受けてみる。教科書もないのでさぞかし迷惑だろうが隣の人に見せてもらう。しかしながら難解な文章が多く、英和辞典をアメリカに持ってこなかった私は非常に後悔することとなった。ロースクールで授業を受けるためにはまず基本的な英語力の習得と、法律英語を学ぶ必要がある。教授が入ってきて授業開始。ソクラテス・メソッドという言葉を聞いた人がいるかもしれない。アメリカのロースクールでは教授が生徒に質問しながら授業を進めるのが定番なのである。ソクラテスは道を歩きながら人々に問答を繰り返していたことから付けられた名前である。というわけだから中大の講義とは少し違い、緊張感あふれるものとなる。特に教授が近くを通るときなどはヒヤヒヤものである。もっとも学生は物怖じすることなく答えていた。この授業についていくためには相当な予習が必要であろう。そもそも教科書が異常に分厚いのである。アルファベットがぎっしり詰まった1000ページ位を1年で終わらせることなど本当にできるのだろうか。ロースクールの授業は日本の法学部とは比べものにならないほど難しく、ハードである事を感じたのであった。アメリカではロースクールを出るとL.L.M(法学の修士)を取得できる。その後BAR-EXAMという日本の司法試験みたいなものを受けることによって弁護士登録ができる。なお、アメリカで1年に誕生する弁護士は数万人単位である。日本では裁判官、検察官併せてまだ1200人、5年後には3000人の予定である。日本全国の法学部の定員にして4万人なのだから仕方がないとも言える。アメリカでの法曹、また裁判の一般への普及度は日本と比べても格段に高いと言えよう。

 シカゴを発ち、コロンバスへ向かう。この時乗った飛行機は50人乗り。内心ヒヤヒヤだったのだが無事に到着。コロンバス空港にはブロードラン(Broad Run、私がホームステイする家族が経営しているチーズ工場)のオーナーでありホストファザーであるハンス(Hans Schindler)が迎えに来てくれていた。ここから2時間かけてホームステイ先のドーバーまで車で疾走するのである。それにしてもアメリカのフリーウェイは快適である。日本よりもゆったりと幅をとってあるので高速クルーズでも疲れないと思われる。しかしハンスは眠たそうだった。ブロードランに到着。家族はハンス、奥さんのナンシー(Nancy)、次女のタラ(Tara)が一緒に住んでいて、そこにステイすることになっていた。さらに、隣の家には長男のチャド(Chad)が結婚して独立しており、(仕事はやはりチーズ職人)奥さんのジョティー(Jody)と5歳の娘ベイリー(Bailey)、3歳の息子カーソン(Carson)が住んでいた。この2人の子供はやんちゃ盛りで、よく一緒に遊んだ。私は子供が好きなので、いろいろ新しい遊びを考案したり探検に行ったりしてうまくやっていた。
 ブロードランに来たのはチーズを作るためである。実はブロードランは昨年のオハイオ州チーズコンテストで優勝しており、店に併設された店舗にはひきも切らず客が訪れていた。こんなところでチーズ作りのお手伝いをしても良いのかと思ったのだが、重要なところはもちろんハンスやチャド、それからジェリー(Jelly)おじさん(ナンシーの弟)がやるのであって、私の担当した仕事は、届けられたミルクを攪拌機に入れる機械の操作、熟成させたチーズの切り分け、温度調節作業、それから店の中にはいるとチーズの販売、レジ打ち、商品の補給、商品の買い出し、飾り付け、車の誘導、フェア(後述)でのチーズ販売など多種多様にわたった。しかしながらこれらの仕事をやるうちに、チーズの作り方は完全にマスターした。ただ機械がないとできないが。
 チーズ職人の朝は早い。本的には4時起きで、夜は10時に寝るというような感じである。私は一日おきで階下の工場に出勤していた。それに体力も必要である。サービス業ではない、世界の根幹を支える第1次産業なのであるから、体力勝負である。実際素晴らしい腕の筋肉の持ち主なのである。私が腕相撲で彼らに勝つことはついぞなかった。
 それにしてもオハイオの田舎っぷりは私のふるさと、岐阜県糸貫町(もうすぐ合併して名前が変わりそうであるが)をも凌駕している。すばらしい。私はこういうところが大好きである。東京に住んでいる身としては、せかせかとした都市で弁護士をやるのも良いが、こういうところでチーズを作るのも非常に良かろうと考えるようになった。それくらい雄大なのである。まさにこれがアメリカなのである。ニューヨークやロサンザルス等はアメリカの一部である。アメリカの大部分はこのような広大な草原なのだ。したがってアメリカに行くときにはいくらロサンゼルス5日間が安かったとしても、アムトラックにでも乗って少しは田舎へ行ってみるとまたアメリカの見方が変わってよいと思われる。
 オハイオでは年に1度、地区ごとにフェアが行われる。ここでチーズコンテストとか、農産物、牛、豚、馬などの品評会、ミスオハイオとかが行われ、また移動遊園地がやってきて、おびただしい数の出店、車でのワインディングロードレースなどまさに盛りだくさんの内容をやっているのであった。ブロードランは去年チーズコンテストで1位を獲得したためで店を出していて、そこでチーズの出張販売をした。かなり売れてハンスもご満悦であった。このように田舎の方ではお祭りはもう町を挙げての大騒ぎなのである。非常に興味深い。アメリカの風習を垣間見た気がした。私の生まれ育ったところは非常に田舎のため、もちろん年に一度はお祭りをやったり、地蔵盆をやったりしているのだが、今や日本ではほとんどのこのようなイベントは消えている。その意味で、アメリカでフェアを体験することができるとは思わなかった。たまたま時期があったため行くことができたのだが、これは私の思い出の一つとなっている。以上、アメリカでの生活は新鮮なことばかりでまだまだ書き足りないのであるが、このあたりで筆をおく。

今回の活動についての感想・今後どのように生かしていくか

今回、アメリカにステイできたことは私のこれからの人生設計において大いなる変化をもたらした。
 まずアメリカのロースクールを体験できたことは、法曹志望である私にとって新たな選択肢を与えてくれた。私は留学を考えているのだが、その前段階として、アメリカでステイできたのは下調べの意味でも、またアメリカの生活を体験する意味でも大変役立ったと感じている。また、もちろん旅行中を通して英語だけで会話するという状況下において、会話力の向上、それから物怖じしない態度、とにかく話しかける積極性など多くのものが身についたと感じている。
 チーズ作りのインターンシップを体験することで、共にチーズを作るという連帯感、相手への信頼、その他私が手に入れた財産は言葉では言い表せないほどである。異文化の中に一人で飛び込むということは、予想をはるかに超えた収穫をもたらした。これからますますグローバル化が進む中、いろいろな視点から世界を見ること、日本語以外でコミュニケーションをとること、求められることはいろいろあるが、少なくともこの研修を通して私には一つの方向性が見えてきた。

後輩達へのアドバイス

今はもう日本だけで動いている時代ではない。しかしながら日本に住んでいるだけでは、外国人の考え方を本質から理解することはできない。国際化の中で、求められているものは英語力はもちろんだが、それ以上にいかにグローバルな視点でものを考えられるかという思考過程である。それを身に着けるためにはとりあえず日本を離れて客観的に見ることが必要なのである。大した動機など必要ではない。とにかく行ってみないと分からない事は必ずある。一度だまされたと思って海外へでてみよう。そしてそれは観光旅行でもかまわないが、できるだけ現地の人々と話をしよう。我々が日本人として何を求められているのか、我々の文化は世界から見るとどうなのか、そもそも日本はどれくらい世界から認識されているのか。この問題はそう簡単ではない。うまくいえないが、少なくとも海外へ出ることでそのきっかけをつかむことができる。ぜひ皆さんにもその体験をしていただきたい。ちょっとした挑戦の気持ちでいい。まず行動することが必要なのである。

その他

研修先情報など

なお、情報収集としては、私は初めのうち語学学校での研修を考えていたためそれも書くと、まずエージェントは確かに便利である。この奨学金のためには、エージェント(地球の歩き方とか、その他いろいろ)を通して資料を請求する。インターネットの検索ページで闇雲に「インターンシップ アメリカ」とかいれても大抵このような企業のホームページしか出ない。そしてそれで学校などの情報を仕入れた後、そこへ直接メールを送り、自分で講義を受けたい旨伝え、受け入れてもらうことができれば万々歳というわけである。今回私が行ったチーズ工場は知り合いの知り合いぐらいの人から情報をもらったわけであり、もちろんインターンシッププログラムなどは用意していない。そこをこちらから無理に頼み込んだのであった。今はインターネットが非常に発達したし、Eメールも簡単に送ることができるのでこれらの交渉は以前に比べれば楽である。しかし英語で願書を書いたりするのはそんなに簡単ではない。一度断られたといってあきらめないように。断られることなど日常茶飯事。もし語学学校へ行きたいのであれば、たくさんのところに出願してみたほうがよい。チャレンジ精神が必要なのである。では健闘を祈る。