法学部

【活動レポート】細田 貴子 (政治学科3年)

「やる気応援奨学金」リポート(32) ケニアでボランティア活動を 貧困問題などの深刻さを知る

2007年2月3日-3月3日までの1カ月間私は「やる気応援奨学金一般部門」の支援を受けてケニアでボランティア活動をする機会に恵まれた。本当に短く感じたこの1カ月であったが留学や旅行とは全く違った経験をすることが出来た。色々な人に出会い、全く違う文化に触れ、初めてキャンプ生活をし、きっと少しは体力的にも精神的にもタフになって帰ってきたと思う。
ここではケニアでのボランティアを行うに至る私の経験、そしてこのボランティアの概要について紹介したい。

なぜケニア?

私はアフリカのエイズ・HIV、貧困問題に興味を持っていた(この言い方は、あまり好きではないが)が、実際にこの問題が深刻な国に行ったことはなかった。そして、統計上の数字からそれらが深刻な問題であることを理解していてもどこか遠くの問題だと感じていた。
私は、ケニアに行く前の夏休みに長期留学を見据えてカナダに短期留学をしている。将来国際的な舞台で働きたいとあこがれていたのでその前提条件の1つとしての英語を磨くためである。初めての語学留学、ホームステイということで、カナダに出発する前から興奮していた。結果として期待以上に充実した時間を過ごすことが出来た。だが帰国後、充実していた留学であったにもかかわらず何か違うと感じた。帰国後、なぜ私はこのように感じたかをしばらく悩んだ。そして私は、何に1番興味があるか気付いた。つまり、英語を磨くために長期留学をする以上にアフリカのエイズ・貧困問題を学びたいと気付いた。
そこで実際にアフリカに行って現状を知りたい、何かしたいと思い、地域住民と一緒に行動出来るボランティア活動に参加することを決心した。
以上が「やる気応援奨学金」に応募した経緯である。仮に選考漏れしても自費で行くつもりだったので1番安く行けるアフリカの国を探したところアフリカの玄関ケニアということになった。

ボランティア活動

今回私たちが参加したプロジェクトはWater Projectであった。このプロジェクトは正式にはBond Bunde Water Projectと呼ばれているもので地域住民のための奇麗な飲み水の確保を目的としたものだ。故に、主な作業は井戸掘りの予定だった。しかし実際は井戸を掘る作業は一切行われなかった。この理由として私たちが受けた説明は、今年は乾季に(大雨季4-6月と小雨季10-12月があり、そのほかの期間は乾季)予想以上に雨が降り、そのため井戸周辺の土が緩くなっていて作業をするのは危険なので井戸掘りは出来ないというものだった。その代わりに私たちは農作業を中心に活動した。なぜならこの農作業から得られる収益は、Water Projectを運営するための資金になるからだ。私は、現地の人と一緒に出来る作業であればどのような形であれ良いと思っていたのでこのプロジェクトの変更に対して異議はなかった。しかしながら、単発的な作業が多く、例えば、今日はとうもろこしの収穫、次の日は畑を耕す、そしてある日は家造りなど継続的に1つのことをやり遂げるというものではなかったため、何かしたぞ!という実感は特になかった。しかしすべての作業が私にとって初めての経験で新鮮だった。村の人と一緒に行う畑作業で手に出来たまめは痛かったが、本当に楽しかった。お調子者の私は、村の人に褒められてがむしゃらに土を耕していた。
そのほかに私たちは、学校訪問を3回行った。学校には、当日行ってアポを取り校長先生、ほかの教師から学校の話しを伺い、実際に教室に行きあいさつをするというものだった。一緒に、バレーボールをして遊んだこともあった。

学校の様子

とても印象的だったのでケニアの学校についてここで述べようと思う。学校に行くと、子供たちはやはり私たちをとても珍しそうに見て、手を振ってきたり、話し掛けてきたり、握手を求めてきたりした。時に100人以上の子供たちが私たちを取り囲むので驚いたが……。そして、教室に行くと先生たちから生徒に対して何か励ましの言葉を言うように言われた。外国人であることがここでは本当に特別な存在であることを実感した瞬間だった。また教室に入って、体の大きさがみんなだいぶ違うことに気付いた。それは当たり前で、留年することもあるし、学校に通い始める年齢もばらばらなので、同じ学年で5歳くらい年齢が違う生徒もいるのである。
生徒たちに質問して色々分かった。どの子もみんな学校が好きだということ。しかし楽しそうにしているが、実際には貧困で苦しんでいること。生徒の中に孤児がたくさんいるということ(この学校は200人中40人孤児)、孤児なので親戚の家に預けられ、その親戚も貧しいので働き手として重労働を強いられその結果、病気になることもあるということ。そして、病気になっても治療代がないため治療出来ないことなど。また学校自体もいつ閉鎖してもおかしくないという状況を先生方から直接伺ってとてもショックだった。
ここで紹介している学校は私立である。公立化出来れば閉鎖の心配もないのだが、もともと私立の学校は、往々にして公立の学校が満員で入れない子のために教師のボランティア精神から作られた学校なのだ(もちろんそうでない私立の学校もある)。もしこの学校を公立化すると国から教師が派遣され、現在勤めている教師は失業してしまう。そのため教師は公立化に積極的になれない。ただ金銭的援助をしてしまうと上手に運用出来ないため、外国人スタッフが経営、運用を指示する必要が出てくる。しかし外国人NGOが学校に入って活動すると、教師たち(もちろんすべてではないが)は外国人に依存する傾向があるなどの問題がある。
学校関連の問題で特に印象的だったことは、制服である。公立も私立も制服があるのだが、それは無料ではなく各自そろえなければならない。この制服が買えないために学校に行けない子もいるのだが、ではなぜ制服があるのか、と疑問に思った。その理由が、裕福な子も貧しい子も同じものを着ることで貧富の差を出さないようにするためなのだ。どんなに破れていても制服を着ていればみんな同じという考えは、私には想像もつかなかった。そのみんな同じにするための制服が手に入らなくて学校に行けない子もいる。これはケニアに滞在して初めて知った事実だった。
ちなみにケニアの教育制度は初等教育Primary School(8年)、高等教育Secondary School(4年)、大学(4年)の8-4-4制。初等教育の最後の年にKCPE(Kenya Certification of Primary Education)という試験を受ける。その結果によってどこの高等学校に入れるかが決まる。高等教育の最後の年にはKCSE(Kenya Certification of Secondary Education)という試験を受ける。その全国的な試験のほかにも各学年の最後に試験を受け、その成績が悪いと(満点のうち半分も点数が取れていなかったりすると)初等教育でも留年することになる。2003年1月から初等教育は無料で受けられるようになったが、実際には制服、筆記用具、教科書などお金が掛かるため行けない子や辞める子が大勢いる。ケニアでは、すべての子が平等に教育を受けることは難しいのだ。

ニャゴワ村での生活

私たちが実際活動したニャンザ(Nyanza)州ニャゴワ(Nyagowa)村はケニアの首都ナイロビから車で約10時間北西へ走った所に位置する。このニャゴワ村は、家がぽつりぽつりとある程度の田舎で外国人はまずいない村だった。なので、私たちを見掛けた子供も大人も物珍しそうに私たちを見ていた。子供たちは大声で「ムズング!(肌の白い人)」と言って白い歯を見せながら笑顔で手を振ってきた。
そんな田舎の村から市場のあるオユギス(Oyugis)村へはボタボタという自転車タクシーを利用して30分掛けて行く。徒歩だと軽く1時間半は掛かる。毎週水曜日と金曜日に大きなマーケットが開かれるこの村も決して大きな村ではなくここにも外国人は私たちくらいだった。ここでは、日用品、果物、肉や野菜など何でも手に入る。私たちは、よくマンゴーやパイナップル、ベイビーバナナ、アボカドを買っていた。その場で切り分けて食べられるパイナップルは格別だった。ほかにもこのオユギス村には、私がお世話になった病院や冷蔵庫のあるお店が何件かあった。

ちょっと話はそれるがケニアというとサバンナでマサイ族が狩猟しているイメージがあると思うが、私たちが滞在した地域は農業をするルオ族が住む地域だった。サバンナはないが豊かな緑に囲まれ、小高い山が近くにあった。私たちがオユギス村に行く時通る道の両側は畑で、動物といえば家畜の牛ややぎが歩いている。このぼこぼこの道を、水の入ったバケツを頭に載せて歩く女の人やボタボタの運転手のお兄さん、家畜を連れたおじさん、たまに砂ぼこりを舞い上がらせながら走る車が通っていった。
ニャゴワ村には、電気もガスも水道もない。朝は、鶏の声で六時くらいに起こされ、夜は遅くとも10時半には寝ていた。夜は月明かり以外光は何もなく、懐中電灯片手に行動していた。夜は暗過ぎて何も出来ないので基本的に明るい間に用事は済ませておくのだ。毎日の作業はお昼過ぎに終わり、そのまま家に帰りお昼御

飯を食べる(大体2時過ぎとなるが)。ともあれこんなに早く作業が終わることに初めは驚いたが理由は2つあるのだ。1つは何をするのにも時間が掛かる。例えば、夕御飯を作るのに軽く2時間は掛かるし、洗濯物をバケツの中で洗って絞り干すのにやはり1時間以上、おふろ(バケツに水をくんで浴びる)も交代で暗くなる前に入らなければいけない。そうこうしていると辺りはいつの間にか暗くなり、空は満天の星空で埋め尽くされる。そしてもう1つは、午後の日差しが強い時間に外で活動していたら体力が持たないからだ。ケニアは暑いだけでなく、赤道直下なので日差しがとにかく強い。そうはいっても暇な時間はありそんな時は、木陰で寝っ転がりながらキャンプの仲間と昼寝やおしゃべり、日記を付けたり、村の子と駆けっこやお手製のボールでサッカーをして過ごしていた。

思わぬハプニング!

今回のキャンプ中思わぬ経験が本当に多かった。今、考えればどれも笑ってしまうようなものばかりだが当時は、深刻な問題であった。これを書かずして今回の活動は語れないと思う。
やっとナイロビに着いたと思ったら、自分のバックパックが届かなかった。これは本当に焦った。(結局2日後に戻ってきて、多少の補償もしてもらえたのでちょっとうれしかった。)
そのほかにも色々な経験をした。市場ではちに刺され、その患部には応急処置として磨き粉を塗られたり、危うく深さ20メートルの井戸に落ちそうになったり、ありに足をかまれて出血したり、飲み水にぼうふらがわいたり……。最大のハプニングは最初の週に体調を崩したことだ。止まらない下痢に頭痛、腹痛、発熱、寒気に吐き気。村の人の家に招待された時に倒れそうになってそのまま病院へ直行。現地の薬をもらい症状は治まるが、私はトイレに行くことが怖くなり自然と我慢していたらぼうこう炎になり1時間の間に10回以上トイレに行く羽目になる。挙げればまだまだあるが主なものをここで紹介した。これらの経験を乗り越えた自分は少なからずタフになっているはずと自負している。

最後に

2年生としての1年間は忙しく過ぎてしまい自分の行動を振り返る間もなく、私は3年生になってしまった。そろそろ将来について決めなければならない時期である。だがまだまだ自分の将来の姿をはっきり描くことは出来ていない。というよりか、ますます分からなくなってきているのが実情である。

軽い気持ちでボランティア活動に参加したわけではないが、行ってみてボランティアの難しさ、またケニアに根付いている問題の深さを知った。専門的な知識も、体力もなく逆に自分が周りの人にお世話になってしまった今回、自分に足りないものの多さを実感させられた。貧困やエイズそしてそれらに付随する問題で苦しむ人たちをどのようにしたら助けることが出来るのか、解決のヒントを得ることすら出来なかった。だが、ほんの少しではあるがケニアの実情を自分の目で見て知ることが出来た。統計上の数字でしか知らなかったアフリカの問題の深刻さを実際に知ることが出来たこの体験は、今後の将来を決めていくうえでも本当に貴重であると思う。そして今回の経験から、今の私に足りないところを少しずつ埋めていきながら自分を成長させていこうと思う。今後どのような形で、ケニアやアフリカのほかの国々にかかわっていくか分からないが何らかの形で貢献が出来たら良いと思う。いや、貢献したい。
大学に入ってからやってみたいなと思ったことはチャレンジしてきた。この先も色々な経験をして悩みながら焦ることなく私のペースで将来を決めていきたい。また、自分で将来を決めることが出来ること、選択肢があることに改めて幸せなことだと思った。
最後になりましたが、このような機会を提供してくださった中央大学法学部の関係者の皆様、そして不安要素であふれている私を心配しながらも快く送り出してくれた両親に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。

草のみどり 206号掲載(2007年6月号)