法学部

【活動レポート】松田 麻美 (国際企業関係法学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(22) ブルキナファソでインターン アフリカの貧困の現状を確認

2006年2月9日夜、ようやくあこがれの「アフリカ」に到着。ほっとする間もなく、空港とは思えない、独特の雰囲気とにぎやかな叫び声に出迎えられた。私は早くもそれらに圧倒され、瞬間的に帰りたいと思ってしまったことを今でもはっきりと覚えている。
しかし、段々とその生活に慣れるにしたがって、「アフリカ」という魅力にはまり込んでいる自分がいた。私はNPOにインターンシップをし、自分の5感をフルに活用して、ブルキナファソに共存する「楽しさ」と「影」を確かめてきた。

動機

私は小学校時代から貧困問題に関心があり、国際協力関係のディベート大会やフォーラムの実行委員、海外への短期留学などを通して、社会を規律する「法」は何か重要な役割を持っているのではないかと考えていた。
自分自身で問題の根源を追究し、現地の人々や公の機関に勤める人たちと交流出来るようになるため、さまざまな勉強会などにも参加してきた。特に、難民問題に関心があるため、「難民アシスタント養成講座(国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)共催)」を受講し、日本にいる難民について理解を深めた。将来は法的な面などから難民を手助けする仕事に就きたいとも考えている。
しかし将来について考えれば考えるほど、「貧困」自体を理解していない自分に気が付いた。経験したことがないため、具体的イメージもつかみにくく、雲をつかむような感じのまま勉強しても意味がないのではないかと思った。
そこで、貧困問題に関心を寄せる切っ掛けをくれた原点であり、「貧困」と呼ばれる国がたくさん集まるアフリカの現状を自分の目で確かめるため、「やる気応援奨学金一般部門」に応募したのである。
以前から関心があり、安全性もある程度確保出来そうだったため、最貧国の1つといわれる(国連開発計画(UNDP)・2005年人間貧困指数第3位)ブルキナファソの生活や文化に触れ、体験しながら、それらの問題について考えることにした。
アフリカの情報メールマガジンでNPO(日本ブルキナファソ友好協会)が活動しているのを知っていたため、メールや電話で連絡を取り、インターンシップをすることにした。現地でやりたいことを目一杯詰め込んでもらい、協会の方々には大変お世話になった。
計画を練るのは本当に大変な作業で、アレンジすることはもちろん、飛行機の手配、ビザの取得、本当に細かい計画書の作成。そのほか、所属している研究会の先生と連絡を取って、現地で働いていらっしゃる国際協力機構(JICA)の堀内所長や前駐日大使にお会い出来る機会を作っていただいたりと、11月後半からは目の下にくまを作りながら授業に出た。
また、病気などの面からは日本と比べ物にならないほど「危険」な場所(行ってみるとそうでもないように感じてしまうが)であるため、予防注射は必須。入国審査で必要となる黄熱病の注射から、A型肝炎、破傷風、腸チフス、抗マラリヤ剤などなど、出発直前まであらゆる注射を打ち込んだ。
けれども、このような一連のプロセスを踏んだからこそ、全体も細部も見えるわけだし、スタディーツアーなどに参加しても味わえないことを学べたのだと思う。自分でやるということの大変さや、環境の異なる所で生活することの不便さ。今までの何気ない日常生活がどれだけ貴重で、大切なものかも分かった。計画実行前から本当に多くのことを学んだと思う。
そして本題、「貧困」とは何か。それと闘っている人たちが本当に必要としているものは何か。どうしたらそのような環境を少しでも良い方向(この言葉もあいまいではあるが)に持っていくための手助けが出来るか。法的な面からのアプローチとしては、何が出来るのだろうか……。
答えは出し切れなかったが、これからもこれらの問題を考え続けていくにあたり、期待した以上のヒントを得ることが出来て、本当に良かったと思っている。

日常生活

ブルキナファソは、西アフリカに位置し、6カ国に囲まれた内陸国である。面積は日本の本州より少し広いくらいで、約1400万人(2005年統計)が住んでいる。首都ワガドゥグもそれほど大きくはなく、しかも観光地といえるほどの場所もない。飛行機などは高いため、大半のブルキナファソ人(ブルキナベ)は周辺国以外には出入りすることが出来ない。だから、どこに行っても黒人以外の人に会うのは3日に1度あれば良い方だった。
しかし、聞けば中国系の人たちはたくさんいるらしく、ワガドゥグではOUAGA2000という高級住宅地に多く住んでいるようだった。日本人は現在60人くらいが滞在しているが、ほぼJICAや青年海外協力隊(JOCV)の方たちである。多くの方が高級スーパーマーケットを利用しながらOUAGA2000で暮らしている。
さて私はというと、NPOの事務所に1カ月間お世話になった。
場所は一般の人たちがたくさん住む住宅街にある。とはいえ、赤土とほこりだらけのワガドゥグには、そこら中にレンガ造りの家がひしめいている。住宅街という観念はないように思うが、多くのNGO・NPOが奇麗な通りの奇麗な建物の中に事務所を設置していることを考えると、かなり庶民的なNPOである。規模が小さいからということもあるようだが、私はあの赤土だらけの場所で人々に交ざって駐在することに意味があると思う。

ここには駐在員、研究員のお2人が事務所で駐在なさっていたが、ブルキナで結婚して生活している女性もいらっしゃり、3人の日本人の方にお世話になった。
忘れてはならないのがサンドリンという今年21歳の女の子。事務所でお手伝いさんをしていて、2歳になる女の子のデニッサがいる。年齢も非常に近く、たくさんの共通点を持っていたため、すぐに仲良くなった。しかし同時に、異なる点も多くあった。サンドリンやその家族、現地で出来た友達からは本当に色々なことを教わったが、ここでは紹介出来ず、残念である。
そのほか、事務所専属の運転手であるアブドルさんと、夜になると警備に来てくれるかご作りのおじいさんが毎日出入りしている。
ブルキナの1日は日本より長い。普通朝六時には起床して、仕事やおしゃべり、食事をしたり休んだりして、夜は11時ころには寝ていた。
私も早ければ4時30分くらい、大抵は5時30分に起きておふろに入り(皆がよく水を使う食事時は断水になってしまうため)、七時から八時の間にみんなで朝食(フランスパンとネスカフェ)を取り、ほかに現地で活動しているNGOの方からお話を伺ったり、サンドリンとマルシェ(=市場、とにかく面白い)に行ったり、友達と遊びに行ったり、1人で外出したり……。
お昼は、その用事によってだが、よく家でサンドリンの御飯(食事も興味深い)を食べた。お昼は、3時くらいまでは確実に暑いため(40℃あるが、日本とは大違い。乾燥しているため、日陰に入れば暑くない)、日記を書いたり、インターネットカフェや友達の家に行ったり、仮眠を取ったりしてあまり遠出はしなかった。それ以降は6時30分くらいまで外出したこともある。
サンドリンの夕食を食べた後は、サンドリンのお姉さんのクリステル(しょっちゅう家に出入りしていた)と話したり、お酒を飲んだり、歌ったり、テレビを見たりする。そのほか、おふろに入った2人の子供たちと遊んだり、ジェンベ(アフリカの太鼓)をたたいたり、日記を書いたりもした。夜は疲れてしまうのと夜に弱いのとで、9時から11時の間には寝てしまっていた。

ナサラ

ブルキナファソはモシ族の国で、彼らの話す言語は60近くに分かれている。地域によって違いがあるようだが、私が仲良くしていたブルキナベは皆、公用語のフランス語と幾つかの現地語を使いこなしていた。英語とフランス語ですらままならない私にとって、それは素晴らしいことに感じる。そして、こういう人たちこそ、通訳として世界で活躍出来たら良いのにと思った。
しかし、ある日の夜中、ブルキナ風居酒屋で星を見ながら魚料理とお酒を囲んでいたとき、日本で仕事もしたことがあるブルキナベは、以下のように言っていた。「日本では危ないって叫んだらみんな理解出来るけれど、ブルキナでは違う。たくさん言語があることは良いことじゃないよ」

ブルキナファソにはさまざまな経歴を持つ人がたくさんいる。
英語ぺらぺらなガーナ人、インターネットカフェで働く、ガーナ人とトーゴ人の両親を持つトーゴ人、日本で建設会社に勤めていたブルキナベ、トヨタで働き珍しく英語の話せるブルキナベ、UNHCRの証明書を見せびらかしてお金をせびってくるコートジボワールの難民、いわゆる不良青年だがブルキナの音楽を次世代に伝えるための活動をするグループ、家族のバイク修理屋で働く15歳の少年、給料の良い夕方から明け方まで保健省の印刷部署で働く青年。
皆ブルキナで一生懸命に生きている(ただしブルキナ的一生懸命というところに注意)。
私は滞在中、どこに行っても「ナサラ」(モシ語で「白人」)と呼ばれた。日本人なのだから白人ではないと私は思うのだが、向こうの人にしてみれば微妙な色の違いは関係なく、クロに対してシロなのだとサンドリンに言われてしまった。
「君、中国人?」といわゆるナンパに遭うことも日常茶飯事。初めのうちは色々な人たちと話したり出会ったりするのが楽しかったが、2週間もたつと「中国人じゃなくて日本人だよ」と答えることには飽きてきた。同じアジアだけれど同じにしないで!という多少のいらいらもあった。

ブルキナベは日本をよく知っている。空手とジャッキー・チェン、ジャッキー・リーは彼らにとって日本の象徴らしい。テレビ(事務所には置いてあるが、一般の家庭にはほとんどない)ではブルキナや周辺国、米国の流行曲が流れ、フランスの料理番組やクイズ番組、ドラマなどが映っていたが、茶道(!)や藍染を紹介する番組も流れていた。そして米国同様、「日本はリッチな国」というイメージがあるようだ。
一方日本では、ブルキナファソを知っている人は本当に少ない。そう考えると、間違えでも聞いたこともないと答えるよりはましである。
また、今振り返ってみると、「アフリカ」からしたら、「アジア」とまとめて考えられてしまうのも仕方がないことだったのかも知れないと思う。人のことはいえない。自分にとっても「アフリカ」に来る前は、ブルキナファソ=「アフリカ」ではなかったかと気付いたからだ。
実際に訪問するまで、ブルキナファソもガーナもコートジボワールも、頭の中では違うと分かっていたけれど、心の奥では皆一くくりにしていた。私は中国人ではないと思ったけれど、アフリカ大陸を1つの国のように扱ってしまうのは、アフリカに住んでいるさまざまな人たちに失礼なことである。確かに、ブルキナベには「アフリカ人」という感覚があるようだが、「アジア人」として行動していなかった私がそんなふうにしてはいけないと思う。
1人1人を見ること、それはどこの世界でも、どこに行っても共通していえることだと思った。自分にとってアフリカは何か、ブルキナファソは何か。改めて考え直したい。そこにも「貧困」を生み出す何らかの原因があるかも知れないからだ。

これから

滞在中、国連ビルにあるUNDPで勤務している日本人の方に、ブルキナで行っている政策などを伺った。
JOCVやJICAの職員の方々、特に堀内所長には2回もお会いし、さまざまなことを教えていただいた。現地で活動する世界的なNGOを複数訪れ、政府関連組織とは違った角度からのお話もしていただいた。私がお世話になったNPOが行っているプロジェクトや話し合いの様子も見せていただいた。前駐日大使にもお忙しい中2日間もお会いする機会を作っていただき、良い勉強になった。
けれども同時に、中途半端な語学力では駄目だということも痛感した。
そのほか友達の小学校や高校を見学したり、伝統工芸作りを見せてもらったり……ここに挙げたことは滞在の1部でしかない。
ブルキナには山ほど仕事がある。だが、どれもその日1日分の生活費にしかならないため、皆アメリカに渡って出稼ぎをしたいと言っていた。学校制度が日本と異なるために、子供たちが働いているのは当たり前の光景でもあり、生活してみるとそれが何でもない当然のことのように感じてしまう時もあった。
滞在してみて、私は「貧困」を理解するどころか、むしろ分からなくなった気もする。解決するためにもっと勉強しなければと思う。しかしFLPの研究などの際、今までだったら気付かなかったところにも着目出来そうだし、何よりブルキナの生活のリズムを多少なりとも分かったことが、今後のために非常に役に立った。

私は、将来的には国連機関で働きたいと考えている。個人や私的機関は直接的貢献がしやすい一方、公の機関なら金銭的に抑え込まれることも少なく、包括的に「世界」を見ることが出来る。今回たくさんの人に出会い、公的機関への批判も聞いたし、自分自身疑問に思うこともあった。しかし、文化の混ざり合う中で、さまざまな刺激を受けながら、共に世界全体の安定や平和を考えられるところが良いと思っている。
あと3年しか残されていない大学生活をフルに活用して、知らないことを自分の目で確かめ、考え学びながら、私はこれからも自分を磨いていきたい。

草のみどり 196号掲載(2006年6月号)