法学部

【活動レポート】石川 可南子 (政治学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(69) 米NPOでボランティア体験 日系コミュニティーで過ごす

はじめに

2010年秋口に放送された、TBS開局60周年記念ドラマ『99年の愛-Japanese Americans』を見て、アメリカ西海岸に暮らす日系アメリカ人がいかに過酷な運命を背負わされてきたのかを知り、涙した人も多かったのではないでしょうか。

私は、2010年2-3月の約1カ月間を、アメリカ西海岸のシアトルで、日系アメリカ人の2つのNPOの、それぞれボランティアとインターン生として、彼らと触れ合いながら過ごしました。白人からの差別や第二次世界大戦中の強制収容という、つらい過去を持つ二世や、日系人ということをあまり意識せず、アメリカ社会で活躍している三世、言葉も文化もアメリカ人の若者と変わらない、私と同じ年代の四世。「やる気応援奨学金」の奨学生として挑戦したこの旅は、そんな日系アメリカ人の方々と言葉を交わし、話を聞くことで、彼らの歩んできた壮大なストーリーを知ることの出来た、とても有意義な旅でした。

大学生活で思い残すことは

私が「やる気応援奨学金」に応募した切っ掛けは、2009年・大学2年生の秋、講義やサークル、アルバイトに追われる忙しい毎日を過ごしながら、ふと次の春休みの2カ月をどのように過ごすかについて考え始めた時でした。3年次には、就職活動や私が志している国家公務員試験勉強に多くの時間を割かなければならないことを思うと、進級する前の2カ月間の春休みは、大きなことに挑戦する大学生活最後のチャンスのように思えました。これまでの大学生活において自分に欠けていたものは何であったかを考えた時、すぐにそれは国際社会への関心やかかわりであると確信しました。

それまでの自分の関心は、身近な国内の問題に集中していて、国際関係の講義を履修することもなく、ましてや国際的な視点を必要とする活動に参加したこともありませんでした。突然思い立った計画にどう動けば良いのか、当時の私は戸惑うばかりでしたが、外国へ出て、もっと幅広く世の中を知りたいという、まさにやる気だけに支えられて準備を開始しました。私の経験からも言えるように、「やる気応援奨学金」をもらうのには、特別に英語が得意である必要はないし、国際関係について詳しい必要もありません。ただ、はっきりとした目的意識と、それを実現するためのやる気や行動力さえ持っていれば良いのです。奨学金に応募して、世界に出てさまざまな人に出会うのも、すべてはやるかやらないか、自分の行動次第です。

日系アメリカ人という存在

ところで、なぜ私が、日系アメリカ人というあまりよく知られていない存在を活動のテーマに選んだのか、不思議に思う方もいると思います。私自身も、今回の旅へ行く前までは全く考えたこともなかった存在でした。それでも選んだのには幾つかの理由があります。

最も大きな理由は、学部の公共政策ゼミで学んだ、コミュニティー政策について関心があり、シアトルの日系アメリカ人コミュニティーは特殊ではあるが、規模も大きく、コミュニティーについて学ぶには最適だと思われたこと。もう1つは、以前父から日系アメリカ人が第二次世界大戦中に、強制収容所に入れられていたということを聞いた経験です。私は被爆地長崎の出身で、常々、日本や世界が、戦争や核兵器の問題にどう取り組むかについて問題意識を持っていたことが、この計画を進める原動力になったかも知れません。

Nikkei Concernsとの出会い

私がボランティアを行ったのは、Nikkei Concernsという日系人のための老人福祉サービスを提供するNPOです。この組織は、寝た切りや多くの介護を必要とするお年寄りのための老人福祉施設であるSeattle Keiroと、少しの介護が必要なお年寄りのための介護サービス付きマンションであるNikkei Manor、デイケアサービスを提供するKokoro Kai 、元気に生活しているすべての日系人のお年寄りを対象とした、エクササイズやパソコン・生け花などのクラスを提供するNikkei Horizonsという4つの部門から成っています。私は月曜日と水曜日にNikkei ManorとKokoro Kaiへ、金曜日にSeattle Keiroへ、週3日このNPOでボランティアを行いました。Nikkei Concernsは日系コミュニティーの中心的な役割を担うNPOであり、ここでボランティアをすれば、多くのことが学べると考えたからです。

このNikkei Concernsでボランティアを行うに当たって、出発前に1つ、私をとても悩ませたエピソードがあります。シアトルのあるワシントン州では、このような老人福祉施設でボランティアをするすべての人に対して、犯罪履歴証明書を提出することを義務付けています。私も出発前にNikkei Concernsの担当の方から、この犯罪履歴証明書と、私がボランティアをする人間としてふさわしいかどうか、知り合って半年以上の知り合いに書いてもらう推薦状、自筆のサインをした契約書を送るように言われました。

犯罪履歴証明書を手に入れるに当たっては、警視庁や外務省と何度もメールや電話でやり取りし、2度出掛けた警視庁では、何と過去の犯罪歴を調べるために両手10本の指紋を採取されました。すべての書類をアメリカへ郵送してほしいと言われましたが、年末のクリスマスカードで国際郵便が混雑する時期だったので郵送は避け、推薦状と契約書はスキャナでデータ化してEメールで送りました。犯罪履歴証明書だけは、私がアメリカに到着してから直接渡すことになり、もし私に犯罪歴があることが分かった場合は、その場でボランティアを取りやめる約束になりました。というのも犯罪履歴証明書は、自分で開封すると無効となるため、Eメールで送ることが出来なかったのです。自分に犯罪歴がないことは分かり切ったことでしたが、それでもシアトルに着いて担当者の方に書類を渡し、開けて見られる時には、もしボランティアが出来なくなったらどうしようと、とてもどきどきしました。「やる気応援奨学金」では、このような活動や自分の滞在先の確保などの準備作業を、自分自身で1つ1つ解決していかなければなりません。とても大変な作業ではありますが、それを乗り越えることで少しずつ、自分が成長していることを実感することも出来ました。

Nikkei Concernsでのボランティア

Nikkei Concernsは、日本で生まれ育ったにもかかわらず、アメリカ人の介護師に囲まれ、洋食を食べながら死んでいく日系一世をふびんに思った子供たちの二世が、「日系人のための老人ホームを作り、日本文化の中で人生の最後の時を過ごしてもらおう」という理念の下で作った組織です。そのため、スタッフは皆さん英語と日本語の両方を話し、出される食事もほとんどが日本食で、歌う歌も日本の童謡、アクティビティーも生け花や書道と、アメリカにいながら、この施設の中だけはまるで日本のようでした。そのため、このボランティアをする時だけは私も英語を話す必要はありませんでした。

今現在、老人ホームに入っているのはほとんどが日系二世であり、10代のころに第二次世界大戦中の強制収容を経験しています。驚いたことに、強制収容所は彼らの日常会話でも頻繁に話題に上っていました。「あなたは何ブロックだったの? あのブロックは特に環境が悪かったわね」「シャワー室にもお手洗いにも仕切りがなかったのよ」「多くの白人が日系人に冷たかったけど、1人だけ日系人の子供たちに優しくしてくれた若い白人の女性の先生がいたのよ」などという、戦争や強制収容所での直接の体験を聞くことが出来ました。

そして何より私が驚いたのは、ここにやってくるボランティアの方々の多さとエネルギーでした。1日に約15-20人のボランティアが手伝いにやってきて、食事の準備やアクティビティーの補助などを行います。Nikkei Concernsのス

タッフは3人程度しかいないため、ボランティアがいなければ全く成り立ちません。ボランティアの方々は入居しているお年寄りと年齢がほとんど変わらないくらい高齢の方ばかりで、Seattle Keiroで洗濯のボランティアをしているおばあさんは何と93歳というのだから驚いてしまいました。それでも年齢はボランティアには関係ありません。皆さん「ボランティアは自分の健康や楽しみのためにしているのよ」と、ボランティア自体を楽しんでいる方たちばかりでした。時々やってくる地元のUniversity of Washingtonの学生ボランティアの大学生たちと仲良くなれたのも、お年寄りと過ごしてばかりの私にとってはうれしかったです。彼らとは今でもFacebookを通じて連絡を取り合う関係が出来ました。

Denshoとの出会い

私は計画し始めた当初、平日はずっとNikkei Concernsでボランティアをするつもりでしたが、ホストファミリーを引き受けてくださったFrank SatoさんがDenshoというNPOを紹介してくださったので、日本にいる間に、すぐさまインターンとして受け入れてもらうためのメールを送りました。Denshoは、第二次世界大戦中の日系人の強制収容所での悲惨な経験を記録として保存する目的で活動する団体で、主に強制収容所を経験した日系二世にインタビューを行い、DVDに保存するという作業を行っています。Denshoのウェブサイトでは、これまでのインタビューのすべてや、日系コミュニティーに関する歴史的な文書や写真の数多くを、アーカイブから見ることが出来ます。

この組織の代表のTom Ikeda氏は、私をインターンとして受け入れることを快諾してくれた、とても優しくてスマートな人でした。Tomはシアトルに本社がある、マイクロソフトの元社員で、今は退職してこのNPOを立ち上げています。冒頭に触れたTBSのドラマでは、このDenshoがドラマの監修を手掛けました。そして私に用意された活動は、このドラマ放送に合わせて立ち上げる、Denshoの日本語版ウェブサイトに関するものでした。Tomは、多くの日本人が、日系アメリカ人について、あまり関心がないということに危機感を抱いていて、Denshoのアーカイブを日本語に翻訳して、日本人が日系アメリカ人についてより深く知るための、充実したコンテンツにしたいと考えていました。私は、インタビューの翻訳のチェックや日本で運営されている日系アメリカ人について書かれたウェブサイトの調査、見やすいウェブサイトのレイアウトの提案などといった作業を行いました。どれも簡単な作業でしたが、1つ1つ丁寧にやることで、確実に日系アメリカ人の強制収容所での経験だけではなく、彼らがどのような人生をアメリカ社会で送ってきたのか、学ぶことが出来るものでした。

多くの日系人との出会い

シアトルで私がお世話になったFrank Satoさんは、私のこの旅が充実したものになるように、実に多くの面で助けて

くださいました。先のDenshoを紹介してくださっただけではなく、強制収容所のあったMinidokaや、日系一世であるFrankさんの両親が最初にシアトルへやってきた時に耕していたという、シアトルのダウンタウンからは少し離れた所にある広大な畑、ワシントン州の一番大きな大学であるUniversity of Washington、週末には日系人のための教会など、連れていってくださった場所を挙げると切りがないほどです。

University of Washingtonでは、日系人の先生が教えている民俗学の講義に私も交じって受講することが出来、アメリカの大学生になった気分を味わえてとても興奮しました。また、Frankさん自身もこの大学の出身なので、この時多くの思い出話を聞かせていただきました。当時は差別がひどかったため、日系人はほかの学生と同じ寮に入ることを許されず、日系の学生のためのアパートを親たちがお金を出し合って買い、みんなそこへ集まって住んでいたという話や、当時、学年で上位5人の優秀な学生にはメダルが贈られる制度で、Frankさんはこの優秀な5人に入っていたにもかかわらず、日系人であることで差別され、メダルをもらえなかったという話、強制収容所に入る時に、日系人はほとんどの財産を没収されたため、両親にはお金がなく、アルバイトをして学費を全部自分で稼いだ話などからは、当時の日系人の学生がいかに苦労して大学生活を送っていたのかを知ることが出来、それでもFrankさんのようにアメリカ社会で成功を収めた日系人が多くいることに、大きな誇りを感じました。

Frankさんのお孫さんなど、私と同年代の多くの日系四世にも出会いました。彼らは日本語を話すことが出来ず、日本の文化もあまり知らず、日本食もあまり好きではない、全くアメリカの若者と同じです。それでも、私の話す日本の話

に興味を持ち、色々と質問をしてくれました。今後彼らがアメリカ社会で活躍するようになれば、いつかは日系アメリカ人の持つ日本の文化も薄れていってしまうと思います。それでも、何らかの形で日系アメリカ人の四世である彼らと、私のような若い世代の日本人が互いに関係を保っておくことは、これからの日本とアメリカの関係を強く保っていくためにも重要なことだと感じました。彼がいつか自分のルーツを知りたいと思った時、私たちは彼らを日本で温かく迎えてあげるべきだと思うのです。

日系アメリカ人から学んだこと

1カ月間シアトルの日系アメリカ人と共に過ごし、私は彼らがいかに苦労してアメリカで生きてきたのかを知りました。同時に、それにもかかわらず彼らが明るく、日系コミュニティーが活気に満ちていることに驚きました。Nikkei Concernsのお年寄りやボランティアの方々、教会で出会ったお年寄りたちは明るく元気で、つらい過去を負っている人たちだとはとても思えません。第二次世界大戦後、日系人がほとんど財産も持たず偏見も残る中、アメリカ社会で大きな成功を収めてこられたのは、彼らの持つ明るさや強さ故なのかも知れません。

帰国して既に半年以上がたちましたが、アメリカでの思い出はとても温かいものとして私の心にとどまっています。大学2年の春に、日系コミュニティーに一人で飛び込んだこと、そこで素晴らしい多くの人との出会いがあったこと、この経験はこれからの私の人生をより豊かにしてくれると確信しています。

こんな素晴らしい経験をする機会を与えてくださった、奨学金にかかわるすべてのOB、先生方、「やる気応援奨学金」に挑戦するという経験を共有したほかの奨学生の皆さん、帰国後、私の経験に耳を傾けてくれた家族や友人たちに心から感謝したいと思います。

草のみどり 242号掲載(2011年1月号)