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立志編 Finding his Mission in Life

はじめに

1960年代、高度経済成長期の日本では、各地で公害が頻発していた。熊本の水俣湾沿岸域、新潟の阿賀野川流域、富山の神通川流域、三重の四日市周辺地域などで数多くの被害者が出ていた。被害者たちは健康被害に苦しみ、さらに社会的差別に苦しんだ。そして、被害者たちは放置された。被害者たちの救済に国は積極的に乗り出そうとはしなかった。

この状況下でイタイイタイ病の被害者たちを支援し、救済の実現を求めて法廷で闘った若き弁護士たちがいた。その一人が松波淳一である。

1. 生い立ち

松波淳一は、1930年初冬、富山県氷見市に生まれた。母は松波が5歳のときに死去した。父は8歳のときに戦死した。中学のときに祖母をなくし、父方の伯父に引き取られた。高校を卒業するも進学する余裕はなく、地元の郵便局に勤務することになる。

松波淳一年譜 松波淳一年譜 松波淳一年譜

松波は27歳のときに東京への転勤を願い出て、深川郵便局の勤務となる。その一方で、中央大学法学部夜間部に進学する。大学3年生の暮れ、勉強に専念するために郵便局を退職した。生活を切り詰めて勉学を続け、卒業の年に司法試験に合格した。

三ヶ月章『民事訴訟法』
1-1:三ヶ月章『民事訴訟法』(有斐閣、1959年)
本書は松波の旧蔵書である。本書の線引きや書き込みから、彼の努力の跡がうかがわれる。民事訴訟法(民訴)は司法試験の一科目であり、「民訴は眠素」などと言われるように受験生が特に苦しむ科目でもある。
1-2:官報(1962年10月4日)
松波は、中央大学を卒業した1962年、見事に司法試験に合格した。司法試験合格者の名前は官報に掲載される。この年、中央大学法学部の出身者の合格者は131名であり、その内夜間部出身の合格者は25名であった。
1-2(拡大)
5段目に「松波淳一」の名前があがっていることが分かる。

この頃、松波は、図書館で読んだ『朝日ジャーナル』の記事で、イタイイタイ病と出会っている。その記事では、イタイイタイ病の原因が神岡鉱業所の鉱毒の中に含まれるカドミウムである可能性が濃厚であるものの、富山県が真相解明に消極的であり、追及の手が及んでいないとの指摘がなされていた。

司法試験合格の直後、松波は、日比谷公園内にある図書館で『朝日ジャーナル』に掲載されたイタイイタイ病についての記事を読んだ。この記事が、松波淳一がイタイイタイ病とかかわることになるきっかけとなったのである。

2. イタイイタイ病との出会い

松波淳一は、1965年に弁護士登録をして、生まれ故郷近くの富山県高岡市で事務所を開いた。その翌年、彼の人生を大きく変える出会いがあった(松波2000)。京都で開かれた自由法曹団の総会で、新潟の弁護士坂東克彦の話を聞く機会を得たのである。当時、坂東は、新潟水俣病の原告団を率い被害者救済にむけて邁進していた。その坂東は、松波に「松波君、君は富山県だ。神通川の沿岸にイタイイタイ病という公害がある。ぜひ取り組みたまえ」と声をかけた。この言葉が起爆力となった。

1960年代の日本では、各地で深刻な公害が発生し、多くの人が健康被害に苦しめられていた。しかし、被害者たちの多くは救済されることはなかった。富山県の神通川流域では、大正期より農村の女性たちが原因不明の病気に苦しんでいた。原因究明も進んでいたが、国も県も企業も、被害者の救済に積極的に乗り出すことはなかった。こうした状況の打破に向け、弁護士2年目の松波は取り組みを始めることになった。

【引用・参考文献】
松波淳一『定本 カドミウム被害百年 回顧と展望』桂書房、2015年
(当館所蔵の一次資料)
松波淳一「坂東克彦先生への祝辞として」2000年8月、当館蔵
松波淳一「はじめに」、当館蔵

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