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イタイイタイ病の記憶を伝える Conveying memories of Itai-itai Disease

松波淳一は、後進への教育にも熱心に取り組んだ。1997年より新潟大学理学部で「金属と人間—そのひかりと影」の講義を担当している。また、司法修習生や大学生・高校生を対象とする講演も各地で行っている。講演を聴いた者の中には、松波を師とあおぎ、公害等での被害者救済に尽力する者もいた。こうした活動の延長線上にあるのが、1998年の『ある反対尋問』(日本評論社)の出版である。

4-1:『ある反対尋問』(1998)の原稿、当館蔵(1-1No.14)

2001年12月、71歳になった松波は弁護士登録を抹消し、事務所を閉じた。松波自身は、ある記事の中で老齢を理由としてあげているが、これは本当の理由ではないだろう。彼は、執筆活動を通してイタイイタイ病についての正しい情報を伝えたいという思いがあったのだろう。それから約20年にわたり、松波は、自らの経験を後進に伝える執筆活動を精力的に行っていくのである。

松波の書斎(再現)

4-2:松波の書斎(再現)
4-3:松波愛用の筆記具、当館蔵

2002年、松波は『イタイイタイ病の記憶』(桂書房)を出版する。本書は、イタイイタイ病事件の全体像を克明に記録したものである。松波は本書に7回にわたる改訂を加える。当初は、200ページをやや越える程度の分量であったが、最終的に600ページをこえる大著となった。こうした発展の裏に、イタイイタイ病にかかわる情報をできる限り詳細に伝えようとする松波の熱意が伝わってくる。またそれをうけとめて改訂に応じた桂書房の熱意にも感服させられる。

高度経済成長と公害ー弁護士松波淳一の遺した正義

1962年。太平洋戦争終結から17年、日本は高度成長のまっただ中にあった。この年、松波淳一は司法試験に合格した。またこの年に図書館で読んだ朝日ジャーナルの記事で、イタイイタイ病に出会った。鉱毒におかされ苦しむ人々を、政界も、財界も、官界も、学界も一体となって黙殺しようとしていた。司法もこうした人々の救済に積極的ではなかった。ここに敢然と立ち向かったのが松波淳一弁護士であった。

それから60年以上の時間がたった。四大公害は教科書の中で教えられる過去のものとなったと思っている人も多い。しかし、その苦しみはまだ続いている。人権侵害を受けたにもかかわらず、今なお救済を受けられない人々がいる。公害以外にも、無数の問題がいまなおある。また今、新たに生じ続けている。救済制度ができても、その隙間におち救済を受けられない人がいる。

国や時代を超えて実現されねばならない正義がある。何があっても守られねばならない人権がある。これは人類が長い時間をかけて培ってきた崇高な思想である。この思想を我々はこれからも力をあわせて発展させていかねばならない。また、正義の実現、人権の保護のため、行動していかねばならない。

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