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若き弁護団の結成と公害裁判 Formation of a Young Lawyers’ Group and Pollution Trials

1.島林樹と松波淳一の出会い―弁護団結成

イタイイタイ病の被害者たちは、裁判を決意した。しかしこの裁判を引き受けてくれる弁護士がなかなかみつからなかった。

こうしたなか、被害者支援を買ってでたのが、地元、婦中町出身の弁護士島林樹であった。1966年に弁護士となった島林は、その翌年、娘をつれて実家の婦中町に帰省した。そのとき何気なく手に取った役場の広報誌『婦中町報』にイタイイタイ病検診の記事をみつけた。その年の10月に帰省したとき、イタイイタイ病対策協議会の小松義久の訪問をうけた。被害者たちの実状を聞き島林は、弁護を引き受ける決心をした。「私には鉱毒におかされて悲惨な生涯を送る人々がある一方、これを踏み台に、ぬくぬくと利潤を積み上げていく巨大資本があることがどうしても許せなかった」と、この時の気持ちを、後年語っている(島林2010)。

ちょうどこの頃、京都で開かれた自由法曹団の総会で、新潟水俣病裁判に取り組む坂東と出会っていた松波は、島林がイタイイタイ病裁判についての説明会をするとの報道に接し、婦中町の会場に赴いた。ここで松波は島林と出会い、意気投合し、互いに協力を約束し合った(松波2015、島林2010)。

現場検証の予行準備をするイ対協幹部、弁護士たち(1968年夏)

3-1:現場検証の予行準備をするイ対協幹部、弁護士たち(1968年夏)
島林と松波の二人から始まったイタイイタイ病原告団は、徐々に大きな広がりをみせていく。この写真は1968年夏に撮影したものである。松波は最前列の右から2人目である。『イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集』(2021)より転載。
3-2:イタイイタイ病弁護団たすき、当館蔵
3-1で松波がかけていたのがこの襷である。

2人がまず行ったのは、弁護士の協力者を集めることであった。全国の若手弁護士に支援を呼びかけたところ、東京や名古屋から数多くの弁護士が協力を申し出た。その中には、この裁判のために東京から家族で富山へと移り住んだ近藤忠孝もいた。こうして、「弁護士経験一~二年生中心の、寄せ集めであり、頼りなげ」ではあるが、「エネルギーは溢れている」弁護団が結成され、活動を開始したのであった(近藤1998)。

2.疫学的因果関係

裁判を提起して何を求めるのか。被害者個々人の切実な願いは、健康な身体を取り戻すことである。また自分のうけた被害がこれから繰り返されないことである。しかし、こうしたことを裁判で求めることはできない。裁判でできること、それは過去の被害の賠償(被害を金銭額に評価し、その支払いを求めること)でしかない。しかし、これが認められれば間接的ではあるがさらなる被害の発生を防止するよう促すことができる。

通常、損害賠償の請求が認められるには、(1)相手方が加害行為を行ったこと、(2)相手方に過失があったこと(そのためには被害を予見できたことの証明が必要である)、(3)損害が発生したこと、(4)相手の行為と損害との間に因果関係があること、以上4点の証明が必要である。ただ、イタイイタイ病の原因は鉱業であることから、鉱業法が適用され、ここでは(2)の証明は必要とされない(鉱業法第109条1項)。実質的には、(4)の因果関係の証明さえできれば損害賠償の請求は認められる。

因果関係の証明は鎖に喩えられる。原因から結果まで一つ一つ因果の鎖がつながるかを分析し、これがすべてつながるなら因果関係が証明されたことになる。従来より、因果関係の証明はこのようなものとして考えられてきた。これは一見あたり前のことに思えるかもしれない。 ところが、ここに大きな問題が潜んでいる。神岡鉱業所では亜鉛を産出し、その精製過程でカドミウムが発生する。カドミウムが川に流れ出た。土壌を汚染した。ここまでは鎖がつながる。この後、カドミウムは患者の身体に入る。しかしその具体的経路がわからない。カドミウムを摂取すればイタイイタイ病の症状がおきることは既にわかっている。しかし、身体の中でどういう機序で発症したのかよくわからない。つまり、ここにいくつかつながらない鎖があるのである。

因果関係証明についての従来からの考え方の下では、原因企業としては、因果の鎖のどこかの時点について、「鎖がつながっているとはいえない」あるいは「つながっていない可能性がある」ということさえ指摘できれば、裁判に勝つ(つまり原告敗訴)ことができた。いいかえると、無限の科学論争へと議論をもっていくことができれば、裁判を延々と引き延ばし、敗訴という結果を免れることができるのである。こうした構造があるからこそ、公害裁判で原告は負け続けてきたのである。

因果の鎖のつながりを一つずつすべて証明できないと原告の訴えが認められないということであれば、公害裁判で原告に勝ち目はない。そうであればこそ、これまで公害裁判で原告は負け続けてきたのである。しかし公害裁判の被害者たちは救済をうけなくていいのか。そんなはずはけっしてない。ここで若き弁護団の弁護士たちは、因果関係の判断の仕組み自体に問題があるのではないかと考え始めた。患者救済を求める彼らの訴えは、イタイイタイ病の被害者の救済にとどまるものではなかった。公害裁判のあり方そのものの問い直しを求めるものでもあったのである。

ここで若き弁護団がとった方法は、当時、学界で提唱され始めていた、疫学的因果関係の証明でもって因果関係の証明とするというものであった(松波2015)。イタイイタイ病が発生しているのは、農業用水として神通川の水を利用している地域に限られていた。神通川の流域であっても、上流では水は谷底を流れており、そこから水を水田に引いてはいなかった。中流域では、川が田んぼの平面より高いところを流れており、容易に川の水を水田へとひくことができた。この地域でイタイイタイ病は発生している。下流域になると、また川は水田の平面より低くなり、水を田へと引きにくくなる。この下流域でもイタイイタイ病は発生していない。さらに詳しく調べると、土壌のカドミウム汚染がひどい地域ほどより多くの患者が発生している。このような疫学調査の結果をもって、因果関係を肯定すべきというのが若き弁護団の主張の中心となった。

3.相手方医師の証言を覆せ

疫学的因果関係の証明でもって因果関係を認めさせようとする若き弁護団に対し、三井の弁護団は、因果の鎖の一つ一つの証明を原告に求めた。これは、裁判を引き延ばすことも目指したものである。裁判が何年にもわたるならば、原告の中には裁判を続けることに耐えられなくなるものもでる。そうすれば原告たちは裁判の続行を断念し、低額の解決金でもって和解に応じるものもでてくるであろう。ここが三井の弁護団の狙い目である。そこで、三井の弁護団は、医師たちに証言をさせ、因果の鎖がつながっていないことを反証しようとした。

松波の活躍は、このような相手方弁護団のもくろみを打ち砕くことにこそあった。裁判での証言に対しては、反対尋問という形でこれを崩すチャンスがある。原告の弁護団としては、このチャンスにかけるしかない。しかし、医学的問題に関する医師の証言にはもちろん重みがある。医師の証言を覆すには、反対尋問を行う弁護士が医学知識を十分に身につけ、医師の証言台での発言をその場で覆さねばならない。松波は、大学で医学を学んだわけではない。彼の卒業した中央大学法学部のカリキュラムには、生物学の概論的授業があったにすぎない。しかし、独学で内外の医学文献を渉猟し、医師に匹敵する知識を身につけ、裁判に臨んだ。

3-3:イタイイタイ病ノート その2、当館蔵
松波は、イタイイタイ病の裁判の準備の中で、イタイイタイ病についての正確な知識を原告団の間で共有することの必要性を感じた。そこで、自らが勉強した知識を「イタイイタイ病ノート」として印刷し、関係者に配布した。こうした作業が裁判での反対尋問へとつながっていく。

3-4:カドミウム研究ノート、当館蔵

3-4:カドミウム研究ノート、当館蔵
松波は、イタイイタイ病裁判に勝ち抜くため、内外の文献を用いて、医学知識・化学知識の摂取に努めた。松波の配偶者である郁子もこの作業に協力した。このノートは、CADMIUM in the ENVIRONMENTを郁子が翻訳したものと考えられる。

松波の最大の見せ場が控訴審の終盤にやってきた。三井金属は、ここでも、科学論争に持ち込み、裁判の長期化を目指した。そしてそのためにできるだけ多くの科学者・医学者を証人として申請した。まずは、1971年1月、三井金属は、金沢大学医学部教授のT医師を証人としてよんだ。その証言内容は、(1) 他地区の亜鉛鉱山にイタイイタイ病の発生はない。(2) イタイイタイ病はビタミンD不足が原因として十分に説明が可能というもの。簡単にいえば、イタイイタイ病はくる病だというものであった(松波2015、島林2010)。

くる病は、日光にあたらないでいるためにかかる病気である。人間は日光に全くあたらないでいるとビタミンDが不足しこの病気を発症する。くる病自体は、昔から知られた病気である。以下、法廷でのやりとりを紹介する(松波1998、『イタイイタイ病裁判6』1974)。

松波
こういう論文をお読みですか。ハッチソンという人が書いた論文ですが、インドのナシック地方、これはボンベイというところのすぐ横で、北緯20度くらいの日のあたるところですが、ここのある階級では、子供が生まれると悪魔から身を守るというために、ことに長男ですが、慎重に暗黒のお堂に入れて一年間育てる、そういう慣習があるために、ほかの人では出ないけれども、そこの階級のそういう扱いを受けた人からくる病が多発するということが報告されていますね。読んでいますか。
T医師
読んだような記憶があります。
松波
これは他の社会生活の一般的な人にない特殊な社会生活上の要因がこの人たちにはあったと、こういうためですね。
―中略―
松波
氷見郡熊無村周辺のくる病および、一部におられるその地区の骨軟化症というのは、家屋の位置、構造、生活様式、屋内労働というような社会生活、社会環境上の要因が中心になっている。幼少時にはあまり日光にあたらない生活を送らざるをえなかった、殊に、これらの調査者の指摘したことは、いずれも、つぶらというものを用い家の中に子供が住んでいるからこういう環境で家の中にいるからくる病になるんだと書いていましたね。
T医師
はい大体においてそうですね。
―中略―
松波
たとえば証人のあげたベドウィン族の骨軟化症のような要件、それが婦中町にあるとおっしゃるのですか。
T医師
ありうると思います。
松波
ありうると言う以上は、具体的に何かということを今指摘していないということですね。
T医師
現在はしていません。
松波
現在それはわかっていない?
T医師
はい。ありうるという答えにします。
松波
現在わかっていないとあなたは言ったじゃないですか。
T医師
いや、ありうると思います。これを答えにします。
松波
ありうるというのは、あなたが知っておればわたしが「ありえますか」と言ったときに「あります」、「それでは、何ですか」と聞けば「これです」とあげられるはずでしょう。あなたはさっきどう言った。
T医師
ありうると思います。
松波
ありうるという答えは、今(原因を)あげられないということでしょう。
T医師
いや。
松波
じゃあ、あげてください。
T医師
わたしは、一つの因子だけではないが・・・。
松波
だから、あげて下さい。
T医師
河野さんの言われるような多元的な要素の複合という可能性がありうると、こういうことです。
松波
だから、わたしは、氷見地区における河野さんの、いろいろ検討したもののような因子が〔イ病発生地区に〕具体的にあるかと、それを示してほしいと聞いているんです。
T医師
河野さんの・・・・。
松波
あなたの意見を聞いているです。
T医師
河野さんとほぼ近い・・・。
松波
あなたの意見を言って下さい。ありうるという内容を述べてください。
T医師
一つは食事の因子です。
松波
食事の因子がありうるというですか、あったということですか。
T医師
あったという記載があると、こういうことです。
松波
あなたの意見をわたしは聞いているんです。
T医師
あったという客観的事実を記載しています。
松波
河野さんの論文をさされるわけですか。
T医師
はいそうです。
松波
きのう木沢代理人が聞いたように、河野さんの論文というのは一軒の家の一日の一家族の分析、これですね。
T医師
いや、違います。
松波
婦中町においてはそれ以外報告していないでしょう。

松波の反対尋問は、見事に相手側の証人の証言をつきくずした。翌1972年3月15日の『富山新聞』は、「ビタミンD不足説は矛盾多い」という見出しをつけた記事を載せ、その中で、「患者側弁護団はイ病のメカニズム論を中心にT教授に対し鋭く反対尋問した。この中で同教授は、(1)ビタミンD不足説の立証に現在はまだ具体的な証明資料を持たないこと、(2)ビタミンD不足に主張をかえた動機にも明確な理由づけが乏しい——などを認めざるを得ず、同教授の主張は矛盾点をさらけ出して大きくくずれた。このため、『イ病の原因はカドミウム』とする患者側の主張がさらに前進、控訴審は次回(4月24日)で結審する可能性が強まってきた」と伝えている。

4.勝訴

1972年8月9日、提訴から4年、待ちに待った高裁判決がでた。その内容は原告の主張を全面的に認めるものであった。三井金属もこの判決を受け入れ、裁判は結審した。公害裁判としては初の原告勝訴である。

3-5:イタイイタイ病裁判控訴審判決書、当館蔵
イタイイタイ病裁判は一審でも二審でも原告の主張が全面的に認められた。特に控訴審では、因果関係の証明は疫学的因果関係の証明で十分であることが明示的に認められた。

判決文には次のようにある

カドミウムを経口的に摂取する場合の体内カドミウムの吸収率はどうか、人間がカドミウムを経口的に摂取し、どの程度の量、どの程度の期間、体内に蓄積された場合に腎尿細管の機能障害を生ずるかなどと、カドミウムの人体に対する作用を数量的な厳密さをもって確立することや、経口的に摂取されたカドミウムが人間の骨中に蓄積されるものかどうかの問題は、いずれもカドミウムと本病との間の因果関係の存否の判断に必要でないことはまた疑う余地がないものといわねばならない。

名古屋高裁金沢支部昭和47年8月9日判決

控訴審判決は、公害裁判においてはじめて疫学的因果関係を認めたのである。

イタイイタイ病裁判における原告勝訴は日本全国の公害裁判の原告たちを勇気づけ、熊本水俣病裁判、新潟水俣病裁判の原告勝訴へとつながっていくことになる(島林2010)。島林・松波の熱い心は、裁判所を動かしたのであった。

5.スモン病・水俣病裁判

イタイイタイ病裁判では、たまたま無過失責任を定める鉱業法の規定が適用可能であったため、過失の有無を裁判で争う必要がなかった。ところが多くの公害裁判では、過失の存在を原告が証明しなければならない。そのためには、原因企業が排出等の行為をするに際し、結果が発生することが予見可能であったこと(つまり、当の企業としては予見してはいなかったが、より注意深い人であれば予見できたこと)を証明しなければならない。この証明は大変困難なものである。イタイイタイ病裁判の後、松波はスモン病事件をはじめさまざまな事件でこの証明に果敢に取り組んでいく。

3-6:腕章(松波淳一着用)、当館蔵
スモン病弁護団、水俣病弁護団に参加した際に松波が着用した腕章である。

1955年頃から、全国で、下痢・腹痛のあと、痺れがまず爪先におこり、それが腹部や胸部へと広がり、下半身麻痺や失明を起こす病気が報告された(松波1998)。この病気の患者は、舌が緑になったり、便や尿が緑になるという症状も呈した。当初、原因は不明であったが医学者たちの懸命な努力により、この病気の原因が、整腸剤として使われていたキノホルムであることが判明した。キノホルムは殺菌性の塗り薬として1899年に開発され、1920年代から整腸剤の内服薬としてつかわれていた。

1971年、2名のスモン病患者が東京地裁に裁判を起こしたことを皮切りに、金沢、大阪、前橋、奈良、京都等でも訴訟が起こされた。松波は、イタイイタイ病裁判が終わった直後からこの問題に取り組み、金沢での訴訟にかかわっている。

裁判では、製薬会社に過失があるかが主たる争点となった。過失ありとされるには、結果発生の予見可能性があったことを原告が証明しなければならない。当然、製薬会社はスモン病の発生は予見できなかったため、自分たちには過失はないと主張した。この主張を裏付けるため、製薬会社は薬学の専門家を動員するが、松波はここでも持ち前の調査能力を発揮し、内外の薬学文献を調べ対抗した。そして、(1)昭和10年代に出版された教科書の中にキノリンというキノホルムと類似する物質が有毒であることが指摘されていたこと、(2)キノリンと類似する構造をもつ物質が同様に有毒であることは予測できたことを証明した。

1977年3月1日、金沢地裁は原告勝訴の判決を言い渡した。全国のスモン訴訟の中で最初に判決をだしたのが金沢地裁であった。この判決は、松波の証明を採用し、製薬会社の責任を肯定した。この責任論は、その他のスモン病裁判でも認められていく。

【引用・参考文献】
イタイイタイ病訴訟弁護団『イタイイタイ病裁判 第6巻 高裁篇2』総合図書、1974年)
近藤忠孝「イタイイタイ病裁判」『環境と正義』7号、1998年
沢井裕『公害の私法的研究』一粒社、1969年
島林樹「イタイタイ病裁判(第一次訴訟)における法的発展」(同『公害裁判』紅書房、2010年、621頁以下所収)
松波淳一『ある反対尋問』日本評論社、1998年

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