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イタイイタイ病 Itai-itai Disease

1.松波淳一とイタイイタイ病

松波淳一は、1965年に弁護士登録をして、生まれ故郷近くの富山県高岡市に事務所を開いた。その翌年、京都で開かれた研究会の席上で、当時、新潟水俣病の原告団の中心として被害者救済にむけて邁進していた、坂東からイタイイタイ病に取り組むようにとの励ましの言葉をかけられた。この言葉が契機となり、松波はイタイイタイ病に取り組むこととなった。

1960年代の日本では、各地で深刻な公害が発生し、多くの人が健康被害に苦しめられていた。しかし、被害者たちの多くは救済されることはなかった。

富山県の神通川流域では、大正期より農村の女性たちが原因不明の病気に苦しんでいた。原因究明も進んでいたが、国も県も企業も、被害者の救済に積極的に乗り出すことはなかった。こうした状況の打破に向け、弁護士2年目の松波は力を尽くしていく。

2.イタイイタイ病とは何か

本病患者は歩行や起立のときのみならず、病床での僅かな体動にも激痛に襲われ、日夜睡眠を妨害されて果ては呼吸したり笑っただけでも局所に痛みを覚えるなどして、かたときも苦痛から解放されることがなく、苦痛のために食欲が極度に減退し、衰弱し切って、「いたい、いたい」と絶叫しながら死亡するに至るものである。

『イタイイタイ病裁判 第1巻』(1971)pp.13-14

「栗のいが」の上を歩くような鋭い痛みに耐える患者 『イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集』(2021)より転載。

2-1:「栗のいが」の上を歩くような鋭い痛みに耐える患者

この言葉はイタイイタイ病訴訟の訴状に書かれたものである。訴えの提起は1960年代のことであるが、こうした病気は、大正期に既に発生していた(松波2015)。実に50年にもわたり被害は続いており、祖母、母、本人と3代にわたってこの病気に苦しんでいた人もいる。被害者の数は公式には201名(2023年末時点)とされているが(富山県HP「イタイイタイ病の患者認定と救済」)、実際のところ、これよりはるかに多い数の被害者がいたと推測される。イタイイタイ病が発生したのは、富山県に流れる神通川流域である。婦中町およびその周辺地域に患者は集中していた。患者のほとんどは、出産経験のある女性であった。

3.原因究明への道

イタイイタイ病の原因は何であるのか。その原因の解明にいたるまでは多数の人びとの賢明な努力があった。ここでは、特に原因解明に大きな貢献をした4人に注目することにしよう(松波2015)。

「水があやしい」(萩野昇)

イタイイタイ病とまずはじめに向き合ったのは、婦中町にある萩野病院の院長萩野昇であった。彼の父も祖父もこの地で医師をしていた。婦中町やその周辺地域では、昔より神通川の水を水田に引き込んでいた。またこの水を生活用水としていた。かつて、この水が白濁し、米の生育が悪くなったことがあったともいわれていた。その現象から、この水が怪しい、神通川の上流にある神岡鉱業所が怪しいと目をつけた。しかし、なぜこうした被害がでるのかを科学的にうまく説明することはできなかった。

「カドミウムが原因物質だ」(吉岡金市)

農学者吉岡金市は、1960年、婦中町およびその周辺地域の農業被害の調査を行った。彼は疫学的手法を使った調査を行った。吉岡は、イタイイタイ病の患者が発生した地域について調査し、地図上にこれを記していった。その作業の中で、神通川の水を農業用水や生活用水を用いている地域に患者がでていることに気づいた。また同時に、神通川の水を使用していない地域には患者がいないことをつきとめた。

次に吉岡は、神通川の水の成分を分析し、ここにはカドミウムの含有量が非常に多いことを明らかにした。さらに、イタイイタイ病患者と似た症状の報告を海外の文献に探した。その結果、フランスの医学文献の中に、カドミウムを摂取した者がイタイイタイ病と同じような症状となることを指摘しているものをみつけた。ここから、カドミウムが原因物質ではないかという仮説が浮かび上がった。

「患者の骨からカドミウムがでた」(小林純)

岡山大学の小林純は、吉岡の依頼をうけ、亡くなったイタイイタイ病患者の骨の成分分析を行った。その結果、ここに多量のカドミウムが含まれていることが判明した。また、この地域でとれる米にも、通常をはるかにこえるカドミウムが含まれることをつきとめた。

神岡鉱業所こそが原因だ!!

それでは、このカドミウムはどこからきたのか。カドミウムは自然界に普通に存在するものではない。この物質は、亜鉛や鉛の精製に際して発生する金属である。神岡鉱業所(三井金属鉱業株式会社)は亜鉛を産出し、精製している。これにより、患者の症状と鉱山とがつながった。

神岡鉱業所から高原川に流れ出る排水 『イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集』(2021)より転載。

2-2:神岡鉱業所から高原川に流れ出る排水

4.裁判へ

被害者たちは、被害の補償を求め神岡鉱業所を訪ねた(松波2015、島林2010)。しかし、三井金属の応対者は、自分たちが原因であることを否定していい放った。「公の機関が調査されて、多少なりとも三井に責任があるかのようにおっしゃられれば、こんな暑い最中にいらっしゃらなくても私の方から補償に参じます。逃げも隠れもいたしません。天下の三井でございます」(『イタイイタイ病裁判3』1972)。

富山県も、イタイイタイ病の原因がカドミウムであることを認めなかった。富山県は、工場誘致を積極的に推進しており、公害が起きていることは、その障害になると考えたのであろう。この後、厚生省はカドミウムが原因であることを認める声明をだす。しかし、三井金属も富山県もイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを認めようとはしなかった。

患者やその家族は、困窮し、救済を裁判に求めるより他ない状況へと追い込まれた。被害者の一人は、訴えの提起にあたって島林樹弁護士に次のように述べている(島林2010)。

地面に正座して裁判官を待つ被害住民 『イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集』(2021)より転載。
2-3:地面に正座して裁判官を待つ被害住民
イタイイタイ病患者多発地域で行われた現場検証に際し、到着する裁判官を待つ被害住民たちの写真である。

私は裁判の途中で死んでしまうだろう。しかし、ここに居る嫁さんらがまたあの痛みに襲われると思うと、とても黙って居られない。私は裁判でも何でもやる。

【引用・参考文献】
イタイイタイ病訴訟弁護団編『イタイイタイ病裁判 第1巻 主張』総合図書、1971年
イタイイタイ病訴訟弁護団編『イタイイタイ病裁判 第3巻 証言2』総合図書、1972年
イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集編集委員会編『イタイイタイ病勝訴50周年立入調査50回記念写真集』イタイイタイ病対策協議会/一般財団法人神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会、2021年
島林樹「イタイイタイ病訴訟の経過と判決の意義」(島林樹『公害裁判 イタイイタイ病訴訟を回想して』紅書房、2010年)
富山県HP「イタイイタイ病の患者認定と救済」(イタイイタイ病資料館バーチャル展示室)
松波淳一『定本 カドミウムの被害百年 回顧と展望』桂書房、2015年

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