保健体育研究所新着ニュース

2021年08月24日

当研究所スポーツ健康政策研究班に所属する、総合政策学部教授 小林 勉の記事が「草野みどり」(2021年5月号発行)”巻頭のことば”に掲載されました。

オリンピックのレガシーと幻夢

                                                                                     総合政策学部教授 小林 勉

東京にとって五輪とはいかなる意味を持つのか。たとえば前回の1964年五輪を見てみると、「ゴミはゴミ箱に」「立小便禁止」を周知するチラシが都内各戸に配布され、「海外から人を迎える」という対外的な羞恥心をかき立てつつ近代都市の在り方が啓発された。また道路整備をはじめ鉄道各線の建設、上下水道の整備等の公共事業が行われ、同時にホテルオークラやホテルニューオータニといった施設の建設など民間による開発事業も行われた。当時の東京では交通渋滞や通勤ラッシュなどの問題が生じ、加速する人口集中に耐えられなくなった都市の問題を、五輪を契機に片付けようとしたのである。この文脈において1964年大会とは都政にとって目的ではなく、手段であったと指摘する研究者は少なくない。もちろんその根底には、五輪のようなメガイベントはいかなる理念を掲げているものであれ権力と癒着していて、権力側もそれを意識変容や都市開発等の事業として巧みに利用し、巨額のコストと不都合な真実(多くの人々と店舗が否応なく移転を迫られた)をしばしば隠伏させてきたとの批判的まなざしがある。ちなみに1964年五輪をきっかけに全国各地にスポーツ少年団が創設され、都道府県単位の競技大会も開始されたことで、勝利をめざす競技志向が若年層世代で台頭し、その余波を受ける形で指導員や部活顧問の負担は急増し、無償のボランティア指導員という、世界的にみても珍しいレガシーが構築された。 五輪実施に伴う持続的効果を期待するという文脈から、レガシーという言葉が使われ始めたのは2012年のロンドン五輪以降だが、東京2020大会はいかなるレガシーを遺すのか。 2016年の大会招致の際に掲げた「環境五輪」では支持が得られなかったため、「復興五輪」は東京2020大会の正当化の便法として用いられ、被災地での部分的開催が模索された時期もあった。ただ、その中に被災地の声は含まれることは少なく、あくまで都政側の大会運営コストの都合であった事態に、被災地側は東京2020大会の欺瞞に興醒めする。大学という研究機関が、理念と実態が乖離するこうした五輪の現実を見誤り、単に迎合するのは論外としても、しかし最終的には「東京2020大会と大学の連携」といった協定によってレガシーという語りの枠組みへと取り込まれていく。見落とされがちな五輪の隠された複層性やレガシーをめぐる問題をあらためて見定めること。研究機関としての意義が問われている。