社会・地域貢献

教養番組「知の回廊」23「古代アジアの交流」

古代日本の環日本海国際交流 ー日本と渤海の交渉ー

中央大学 文学部 石井 正敏

はじめに

日本古代国家の形成や社会・文化の発展に中国、特に唐の影響が強かったことはあらためて言うまでもない。したがって、古代の国際交流と言うと、7世紀前半 に始まる遣唐使や遣唐使の訪ねた華やかな唐の都長安の風景をまず思い浮かべることと思う。また同じように古くから行われていた朝鮮半島諸国、すなわち百 済・新羅・高句麗といった国々との交流についてもよく知られているところである。これに対し、8世紀の前半に始まる、日本海を舞台として新たに展開される ようになった活発な国際交流についてはあまり知られていない。その交流相手の国の名は渤海と言い、727年に最初の渤海使が日本を訪れてから、919年に 来日した最後の渤海使が翌年に帰国するまで、およそ200年間に、渤海の使者は33回来日し、日本からの使者も13回日本海を往復している。 
渤海は7世紀の末(698年)に建国され、10世紀の初頭(926年)に滅亡するまで、現在の中国の東北地方を中心に、北朝鮮(朝鮮民主主義 人民共和国)の北部、ロシア共和国沿海州にまで及ぶ広大な領域を誇った国で、靺鞨人(ツングース民族)や高句麗人から成る古代国家である。唐から律令法や礼法を学び、中国風の優れた文化国家を築き上げ、「海東の盛国」と評されている。 
その建国にいたるまでの事情は次のごとくである。7世紀の末、かつて高句麗に属していた靺鞨人の大祚栄は、668年の高句麗滅亡後強制的に移 住させられていた唐の営州(遼寧省朝陽)から一族を率いて当方へ逃れた。唐は征討軍を差し向けたが、軍略に長じた大祚栄は靺鞨人やかつて高句麗に属してい た人々を率いて迎え撃ち、ついに今日の吉林省敦化市付近を根拠地として独立し、震国と号して自立を宣言した。698年のことである。 
大祚栄は唐に対抗するため、自立後まもなく、モンゴル高原の支配者で、唐に拮抗する勢力のあった突厥に使者を送り、突厥の支配を受けることに なった。この突厥との朝貢外交を基軸として着々と政権を固めた大祚栄に対し、唐もその実力を認め、713年には渤海郡王に冊封し、独立を許した。こうして 成立した渤海は、唐と突厥へのいわゆる両属外交によって自国の保全と発展をはかっていくことになる。 
渤海の最盛期の領域は、前述のように現在の中国の東北地方を中心に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の北部、ロシア共和国沿海州にまで及 ぶ。広大な領域を統治するために、要所に五つの京が置かれたが、その中の首都の機能を果たしたのが、上京龍泉府で、現在の黒龍江省寧安市にある。上京は長 安にならった中国風の都城で、外城の規模は東西約四、六キロ、南北約三,四キロの長方形の中心北部に宮殿や官庁などの集まる内城が設けられている。発掘調 査によって、堅固な城壁、一段と高い基壇の上に建てられた礎石造りに緑釉瓦葺きの宮殿、また日本の寝殿造りを思わせる庭園施設など、まさに「海東の盛国」 の首都にふさわしいたたずまいを見せていたことが明らかにされている。 
支配層では漢字・漢文学が必須の教養とされ、唐に多数の留学生を送って、儒教をはじめとする中国文化の摂取に努めている。また仏教が普及して おり、仏寺は都城内だけでなく辺境の地域まで営まれており、各地の遺跡から仏像などが発見されている。このような漢字・仏教・儒教など日本と共通するもの が少なくなかったことにも、両国の交流を考える上で留意しておく必要がある。

第1章 日本との交流の始まり

第1節 初めての渤海使

日本と渤海との二〇〇年に及ぶ交流は、七二七年(神亀四)の渤海使の来日に始まる。この時の渤海使一行二四人は、蝦夷地に到着して多くが殺され、わずかに 八名が日本の朝廷に保護されるという苦難の旅であった。異国に使者を派遣するのは当然必要があってのことである。渤海が危険をおかしてまで、海上はるかに 離れた日本に使者を送る背景には、どのような事情があったのであろうか。 
『旧唐書』渤海靺鞨伝・『新唐書』渤海伝などによれば、この頃の渤海の情勢は次のごとくである。七一九年に王位を継承した第二代渤海王大武藝 は、領土拡大を推し進め、次々に周辺の靺鞨諸部族を併合していった。この渤海の脅威を感じた北方の黒水靺鞨部(以下、黒水)は、唐の保護を求め、唐も渤海 を牽制する上から黒水を覊縻州としてこれに応じた。この黒水と唐との通交を、腹背より渤海を攻めるつもりではないかと疑った武藝は、黒水への侵攻を企て た。王の弟門藝は、その無謀を諌めたが、逆に武藝の怒りをかい、やむなく唐に亡命した。そこで門藝の返還をめぐって唐との間に交渉が続けられたが、埒が明 かないことに業を煮やした武藝は、ついに七三二年、唐領山東半島の登州を襲い、唐も新羅の援兵をうながして反撃するという事態を迎えた。この後数年渤海は 唐への朝貢を中断するが、やがて武藝の謝罪によって一件は落着した。 
七二七年の渤海の日本への遣使は、このような黒水問題をめぐる国際的な緊張状態の中で起きている。これまで渤海は、唐に拮抗する勢力をもつ西 の突厥を頼みとして、領土拡大策を取ってきた。ところが、同じく突厥の庇護を受けていた黒水が渤海の侵攻に対抗するため、突厥から唐に鞍替えしてしまっ た。南北に敵対する勢力に挟まれ孤立感を深めた武藝が東西のラインを強化するためには、はるか海上を離れているとはいえ、東方の日本しかなかったのであ る。渤海の建国者大祚栄は靺鞨人であるが、かつて高句麗領内に居住しており、自立後は高句麗人も彼のもとに集まったというので、武藝周辺には日本との交渉 を知っているものもいたことであろう。およそ半世紀前の高句麗と日本の縁を渤海側も想起しての使節派遣になっていることは間違いない。 
中国側の史料から考えられる渤海王武藝の対日外交開始の事情は以上の如くであるが、最初の渤海使がもたらした大武藝の国書にも、緊迫した事情 がはっきりと述べられている。「武藝啓す」に始まる国書には、「高麗の旧居に復し、扶余の遺俗を有てり」とあり、「親仁・結援、庶わくは前経に叶ひ、使を 通じ隣に聘すること、今日に始めむ」とある(『続日本紀』神亀五年正月甲寅条)。前者の一節は、大国高句麗の復興を誇らかに宣言するとともに、かつて日本 と交流のあった高句麗を想起させる狙いがあった。後者の「親仁・結援」は、いずれも前経すなわち古典にみえる隣国との外交交渉の基本姿勢を述べた言葉で、 特に「結援」には、新しく王が即位すると、臣下が近隣の諸国にでかけていってこれまでと変わりない交流と、有事に際しての援助を約束するということを意味 している。武藝の置かれた立場を如実に表現するものであると同時に、武藝の対日外交を始める動機が、厳しい国際情勢に対応するものであったことを裏付けて いる。 

第2節 日本の対応

それでは初めての渤海の使者を迎えた日本はどのように対応したのであろうか。 
日本の朝廷が、武藝の国書のどの部分に関心を抱いたか、それは返書に明確に記されている。「天皇、敬みて渤海郡王に問ふ。啓を省て具に知り ぬ。旧壌を恢復し、聿に嚢好を修むることを。」とあり、高句麗の故地に復興し、高句麗時代の旧好を再開するとの由を詳しく知った、と述べている。しかしこ れだけである。武藝の切実な要求である「結援」を理解した様子はない。それどころか、「天皇敬問渤海郡王」に始まる書式は、中国の皇帝が臣下に与える形式 の文書である。渤海が高句麗の再興を述べているのは、かつての大国復興の宣言であるとともに、日本との親交を踏まえてのことである。ところが日本の抱いて いる高句麗のイメージは、かつて日本に朝貢してきた国という認識である。したがってその継承国である渤海を朝貢国として処遇することは当然のことであっ た。また大宝律令の施行から二〇余年、日本を中華とする律令体制からいって、渤海を新羅と同じく夷狄に位置づけることもまた当然のことであった。武藝は同 盟を求めての使者派遣であり、もとより日本に対して朝貢する意識などない。両国の最初の交渉に見られるこの認識の差がその後の関係に大きな波紋を投じ、紛 争の火種ともなるのである。

第2章 外交の進展と形式をめぐる紛争

その後は別表のように使者の往来が続くが、日本は、「来啓(国書)を省るに、臣・名を称することなし」、高句麗の時代は「族はこれ兄弟、義は則ち君臣な り」であったと言い、上表の提出を求める(『続日本紀』天平勝宝五年六月丁丑条)といったように、渤海に華夷秩序の遵守を求め、君臣関係を強要するが、渤 海がそれに従わないため、ついに七七一年(宝亀二)来日の使者の時に大きな事件を引き起こすことになる。日本は渤海王の国書に、「日の下に官品姓名を注せ ず、書尾に虚しく天孫の僭号を陳ぶ」(国書の日付の下部の臣下を示す署名が記されていないこと、国書の末尾で「天孫」と勝手に称している)を理由に、国書 を受け取らず、信義の象徴である渤海王からの贈り物をも返却するという強硬な姿勢にでている。この一件は、使者が渤海国王に変わって「表文を改修」し謝罪 するという形で落着した(『続日本紀』宝亀三年正月~二月条)。
この後は大きな紛争は起きていない。渤海が形式よりも貿易を重視した政策に転換 し、日本の意を迎える姿勢を示したことによる。渤海は、唐を始めとする近隣諸国との関係が安定してくると、対日外交の目的も変化してきた。「結援」から 「隣好」重視への転換である。後述する、渤海側から提唱された年期の制定も、この観点から理解することができる。

第3章 貿易と年期制

二〇〇年にわたって渤海との交渉が続くといっても、別表に明らかなように、主に来日の渤海使を送り届ける形の日本からの使者(遣渤海使)の派遣は、八一一 年(弘仁二)を最後としている。すなわち後半の一〇〇年はもっぱら渤海使の往来によって日本と渤海の外交は維持されていたのである。このような変則的な形 の外交が続くのは、当然そこに利害の一致が見られたからである。渤海には貿易があり、日本は貿易とともに、渤海に唐との中継的な役割を期待し、また渤海使 を蕃客とすることで、天皇が中華世界に君臨する存在であることをアピールできるという重要な意義があった。新羅とは七七九年来日の使者で外交に終わりを告 げ、遣唐使も八世紀の末から派遣の間隔が空き、八三八年に最後の遣唐使が派遣された後は、渤海が唯一の公式外交国となったのである。 
さて、日本外交の転換期にあたる七九六年(延暦十五)に遣渤海使が持ち帰った国書で、渤海王嵩? は年期つまり日本への使節派遣の間隔について定めて欲しいと申し出てきた。この後、交渉が続けられ、最終的には八二四年(天長元)に一二年に一度の来航を許すことに決着した。年期について渤海側から言い出しているのは、日本との安定した交渉を求めてのことである。そしてその背景には、日本を有力な市場とみなす貿易への意欲がある。渤海が貿易重視に変化したのは、宝亀頃からである。安禄山・史思明の乱(七五五~七六二)を経て、唐を中心に一応の安定を取り戻し、東アジア全域に国際貿易が活況を呈してくる時期のことである。 
年期制ができても、渤海使はあれこれと口実を設けては年期に違犯して来日を続けた。制定直後の八二六年に期限に違犯して来日した渤海使につい て、右大臣藤原緒嗣が、渤海使は「実に是れ商旅にして、隣客とするに足らず。彼の商旅をもって客と為し、国を損ふは、未だ見ざる治体なり。」と、渤海使の 実体は商人であるとし、直ちに帰国させるべきであると主張している。しかし緒嗣のような意見は少数意見で、多くの日本人は渤海使の来日を心待ちにしてい た。 
そもそも外交に貿易はつきものである。律令には、外国人のもたらす貨物については、まず朝廷が必要とする物を購入したのち、民間での適正な価 格での貿易を許す、という原則が定められていた。しかし八世紀の半ばから新羅使や新羅商人・唐商人の活躍が始まると、彼らのもたらす品物はたちまち日本人 の心をとらえ、律令の規則を無視して、人々が殺到した。「外土の声聞に耽り、境内の貴物を蔑ろに」している(天長八年九月官符)、つまり舶来品ばかり欲し がって、国産品を軽視していると慨嘆する状況であった。海外ブランド品に群がる現代の世相を連想させるが、渤海使の場合も変わりなかった。渤海使の来着を 聞くと、王臣家は家人を派遣して、いち早く優品の獲得をはかり、本来適正な貿易管理にあたるべき国司が、率先して私貿易に関わっていることも知られる(天 長五年正月官符)。渤海使のもたらす主な貿易品は、貂や虎などの毛皮類・人参・蜂蜜など自然産品が多くを占める。中でも貂の裘は貴重品で、参議以上の者だ けに着用を許された(『延喜式』巻四一・弾正台)。このほか工芸品や仏典・仏具なども伝えられている。かつて遣唐使の一員として唐にわたった経験のある人 物は、渤海使のもたらした玳瑁の酒盃などを見て、「唐でもみたことのない優れた品物である」と感嘆した例も知られている(『日本三代実録』元慶元年六月二 十五日条)。ちなみに玳瑁とはいわゆる鼈甲のことであり、南海産の亀の一種であるので、もちろん渤海が外国から輸入した品である。つまり渤海は自国の特産 品だけでなく、唐などとの交流によって得た品を更に日本にもたらしているのである。中にはステップルートに活躍する遊牧民族との交流で得た西方の文物も含 まれていたかも知れない。日本からは?・絹・糸・綿などを持ち帰っているが、渤海使に「黄金・水銀・金漆・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔扇」などが贈られ ている例があるので(『続日本紀』宝亀八年五月癸酉条)、このような品も取引の対象となっていたのかも知れない。

第4章 渤海の日唐間の中継的な役割

貿易ととともに、日本が渤海使の来日に期待したのは、日本と唐との中継役であった。具体的には、遣唐使や留学僧らの往来、在唐日本人の書状や物品の転送、そして唐情報の伝達などがあげられる。 
遣唐使に関しては、まず七三三年(天平五)に遣唐使の一員として入唐した平群広成の例があげられる。広成は唐からの帰途、逆風に流されて今日 のベトナム方面に漂着し、ようやくの思いで再び長安に戻ることができた。そこで再度の帰国のルートを渤海にとり、七三九年に渤海使に送られて帰国すること ができた。このほか、七五九年(天平宝字三)には、遣唐使が渤海を経由して入唐している例もある。 
留学生・留学僧の中では、霊仙のことが注目される。霊仙は、仏典の漢訳事業に重要な役割で参加したことが知られる唯一の日本僧で、五臺山で厳 しい修行の末、毒殺されてしまったと伝えられる僧侶である。日本も霊仙に期待するところが大きかった。そのため唐に留学中の霊仙のもとに留学費用として砂 金を渤海使に託して届けている。しかし使いとなった渤海の僧が二度目に訪ねて五臺山の霊仙のもとにいたった時には、すでに霊仙は没した後であった。霊仙の 死を惜しんだ渤海の僧は追悼の詩文を書き残している。それからまもなく同地を訪れた入唐僧円仁はその日記に書き写している(『入唐求法巡礼行記』)。 
そして人の移動とともに、情報の伝達も重要であった。特に先進国であり何事にもお手本としていた唐の情報は何よりも日本が望むところであっ た。渤海から伝えられた情報で何と言っても日本に大きな影響を与えたのは安禄山・史思明の乱、いわゆる安史の乱(七五五~七六二)の情報である。七五八年 (天平宝字二)九月に渤海から渤海の使者とともに帰国した遣渤海使によって、七五五年十一月の安禄山の挙兵から、本年四月に安東都護からの渤海への援軍要 請に至るまでの詳しい経過が報告され、「唐王の渤海国王に賜う勅書」まで添えられていた。この情報に接した日本の朝廷は、反乱軍が矛先を転じて東方日本に まで攻めてくるかも知れないとして、直ちに大宰府に命じて、その対策を講じさせている。この敏速な対応は、唐で起こっている事件を決して対岸の火事といっ た見方を取っていなかったことを思わせる。このあと相次いで来日した渤海使や渤海を経由して入唐した遣唐使から安史の乱の続報が伝えられたが、この渤海か らの情報は大きな波紋を国内政治に投じた。日本は唐の混乱を利用して、唐の強い庇護のもとにあった新羅への侵攻計画をたて、船舶の建造など着々と準備が進 めた。結局実行されなかったが、この計画は渤海との共同作戦であったと考えられ、いずれにしても、当時の為政者、特に政界の中心であった藤原仲麻呂(恵美 押勝)の鋭敏な国際感覚をうかがわせ、まさに日本が東アジアの一員であることを印象づけるできごとである。 
また渤海が日本が唐の情報に極めて関心が高いことを知ったことも重要である。年期制が定められた後、年期違犯の口実に唐情報が使われている例 がある。八二七年(天長四)来日の渤海使は、留学霊仙のこととともに、「 青節度使康志睦交通のこと」を伝えるために、違期を承知で来航したと述べている (天長五年正月官符)。 青節度使とは、渤海や新羅を監督する唐の機関で山東半島に置かれていた。渤海が伝えようとした情報とは、周辺で起きている反乱事 件であると思われるが、これを違期来朝の口実にしているのは、安史の乱に際しての日本の反応を知っているからであろう。日本の渤海に対する唐との中継的役 割の期待の高いことを承知しての行動であり、渤海の巧みな外交術が目に付く。 
なお長慶宣明暦の伝来も見逃せない。同暦は八五九年(貞観元)来日の渤海使が伝え、八六二年に公式に採用されて以来、江戸時代の一六八四年(貞享元)まで用いられた。おそらく日本からの新暦輸入の依頼に渤海が応じたものであろう。

第5章 交流の終わり

さて、こうして続いた渤海と日本との交渉も、九一九年(延喜十九)の渤海使を最後として、二〇〇年の歴史を終える。「海東の盛国」と評された渤海も、つい に九二六年に西隣の契丹に滅ぼされてしまうのである。渤海の王族や支配層の中には、朝鮮半島の高麗に亡命するものもあったが、契丹が渤海の領域を支配する ために置いた東丹国に仕える者も多かった。九一九年に最後の渤海使として来日した裴?もまたその一人であった。彼は九二九(延長七)、今度は東丹国使とし て来日した。東丹国王は裴?を利用して渤海時代と同様に貿易を営むつもりがあったのであろう。しかし裴?の心はあくまでも渤海にあった。来日後、旧知の日 本人と再会し旧交を温めた。親しい旧友に心を許し、東丹国王を非難する言葉を漏らした。裴?は当然理解を示してくれると思ったに違いない。しかしながら案 に相違して、日本人は同情するどころか、「先主を塗炭の間に救わず、猥りに新王に兵戈の際に諂う」と告白させる過状(怠状)つまり始末書を提出させている (『本朝文粋』巻一二)。亡国の旧友に対する仕打ちとしては余りにも冷淡に思えるが、名分論からすれば止むを得ないことなのかも知れない。

むすび -渤海との交流の意義

平将門が「今の世の人、必ず撃ち勝てるをもって君と為す。たとい我が朝には非ずとも、みな人の国に在り。去る 延長年中の大契赧王(契丹王)のごときは、正月一日をもって渤海国を討ち取り、東丹国と改めて領掌す。いずくんぞ力をもって虜領せざらんや」(『将門 記』)と述べて、武力で天下を奪い取ることを正当化しているのは、果たして将門の言葉なのか、それとも作者の考えを述べたものなのかは明らかでないが、将 門の乱の始まりは935年頃、つまり渤海の滅亡まもない時期のことであり、渤海との交渉に人々が強い関心を抱いていたことを物語っている。また九四二年 (天慶五)には詩興を催すためとして、「蕃客のたはふれ」「遠客来朝之礼」が催されている。これも渤海使の来朝が念頭に置かれている。こうして渤海との二 〇〇年に及ぶ交渉の記憶は日本の人々に刻まれていた。それほど重要な意義をもっていたのである。

【付記】本文は『しにか』第九巻第九号(一九九八年九月)掲載の拙稿「渤海と日本との交渉」に増訂を加えたものである。