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インターナショナル・ウィーク
12月8日(土)シンポジウム 講演者2

日本紛争予防センター(JCCP)事務局長 瀬谷 ルミ子 氏

こんにちは。日本紛争予防センター(JCCP)事務局長の瀬谷です。今回シンポジウムのメインテーマは"国連"とのことだが、JCCPは国連ではなく、NGO。ただ、国連と連携・提携はしている。本日はオープニングで私から3つ話したい。
1つ目は、JCCPの具体的な活動について。2つ目は、過去の国連・外務省経験など、今の仕事をするに至った私自身のキャリアについて。20代のうちは、紛争地の支援の中でも兵士の武装解除、動員解除、社会復帰をしており、30歳になってから、JCCPというNGOの立場で、より広い被害者も含めた紛争解決をするようになった――そのお話をしたい。3つ目は、それぞれのキャリアで何を具体的にやっていたかということと、キャリアの節目で決断をした基準やその理由について触れたい。

届かない現場の声を拾って届ける

私たちJCCPは、南スーダン、ソマリア、ケニアに事務所を展開し、紛争予防と平和構築の活動をしている。紛争地に平和を築くには、教育、医療、食糧など様々なニーズがあるが、私たちJCCPの主な活動分野は3つ。1.治安の改善、2.現地の被害者を含めた社会的自立、3.被害者・和解者の和解と共存。
その中でも南スーダンで行っている職業訓練をご紹介したい(ビデオ上映)。南スーダン首都のジュバで行っているのは、社会的自立の一環で、内戦により身寄りをなくしたストリート・チルドレンや貧困層の若者・子供に啓発教育と職業訓練・就職斡旋を行なっている。このような路上生活をする若者や子どもは、5、6歳の年齢でも麻薬やシンナーなどを吸い、空腹と絶望感を紛らわす者が大変多い。自暴自棄になったり生活苦のために、窃盗など犯罪に走ったりするケースもある。南スーダンの次世代を担う子どもや若者に、社会で生きていくために必要な衛生、薬物防止、性教育、HIV/AIDSなどの社会的知識を伝えるほか、調理の訓練ののちに地元のホテルやレストランに就職斡旋して経済的自立を図っている。8月に訓練した約40名は就職率がおよそ90%という成果だった。
紛争地の状況がメディアで放送されるときに、「被害者の数は50万から80万人」と報道されることがある。30万人は誤差としてカウントされる現実のなかで、声を上げても届かない。私たちNGOの役割は、コミュニティや現地の人々に近い立場でそのような状況に入り、現場の声を拾ってそのために自分たちが出来る支援を行う、もしくはそれに対して行動を取ることが出来る支援者や組織に届けるのが私たちの仕事である。

幼少時から高校生まで

こういう仕事をしていると国際的な環境で育ったのではとかと思われがちだが、私は真逆で、クマが出るような群馬県の田舎で育った。小学校の先生が「クマに気を付けて帰るように」と生徒に注意することもあった。また、私の家族も、未だに私以外パスポートも持っていないし、海外に行ったことがない。
私がこの紛争地で働くことを決めた経緯は、今私が仕事を選ぶ時の基準とあまり変わっていない。私は幼いころから、自分が優秀でないと感じ、コンプレックスを持っていた。人と違う事をしなければならないと自覚していた。姉と弟の間の3人兄弟だったが、姉と弟はスポーツも勉強も優秀だったせいもあり、同じことをしていたら淘汰されると思っていた。常々、人とは違うことをしたいと思っていたが、唯一自分の手の届く範囲でできる未知のことが英語だった。英語はとても好きだったので、よく勉強もした。でも留学生や帰国子女にはかなわない。高校生になるとそれにプラスアルファーが必要と思った。人とは違う何か――これを常に探していた。これが私のキャリアを選ぶ基準になっている。

求められる存在になる――大学生から今に至るまで

学校の勉強の成績とか得手不得手は、仕事のキャリアを選ぶ参考になると思っている。たとえば5教科まんべんなくできるのか、それとも何か極端に得意科目、不得意科目があるか――スペシャリストに向いているのか、ジェネラリストになるのか、ということになる。
私の場合、英語の成績は良かったが、数学は40代の偏差値で壊滅的だった。そこで大学生の時に国際的な英語を生かした仕事で、かつ誰もやっていなくて、現場でニーズがあるものを探し、武装解除を専門にやろうと決めた。
これもよく、どうやってそういう仕事を見つけたのかといわれるが、大学在学中時代から私は図書館で英語の専門書を探し読んだり、英語のウェブサイトをずっと見たりして過ごしていた。そこで、紛争地の支援をしたいが、既に専門家がいる医療や教育分野などではなく、現場にニーズがあるのに必要な人材がいない分野はどこか――と、ずっと探していた。そしてある日、元兵士や子ども兵士だった人たちの社会復帰が問題であるという一文を見つけて、「ああ、これだ!これを専門にしよう」と思った。ただ、だからと言って経験もなくすぐに仕事ができるわけはないので、まずは、中大総合政策学部で紛争について教えてくれそうな先生を探したが、当時はいなかった。
私は楽観的なこともあって、世界のメディアがこれだけ紛争について日々取り上げているのに、日本の中でそれを専門的に教えている大学はないし、先生もいない、だから隙間産業だと思った。自分がその専門家になれば、求められる存在になれるのではと思った。その後、紛争解決の分野も広いので――ニーズがあるがやり手がいないという分野を基準に選んできた。もちろん、自分が関心のある中から選ぶことが第一条件。そうでないと関心がもてないし、続けられない。分野のみならず、キャリアの積み方も同じ。
私が20代前半の時も国際機関やJICAで働きたいという同級生は何人かいた。同時にその中で自分が淘汰されずにやっていくには、他の人と同じではダメと思った。それをかなり徹底した。例えば、一般的に国際協力を志す人たちが通るのと同じ道は選ばないようにしていたし、JPO(政府が給与負担をして国際機関に派遣する制度)も受けないと決めていた。誰もやっていなくて、日本人も多くない分野でキャリアを積もうと意識していた。もちろん、誰もやっていなくてニーズもなければダメだが、ニーズがあるとなれば、今度は人との差別化を意識した。
その後、NGO職員として、ルワンダで初めての現場駐在、国連PKOで西アフリカのシエラレオネで働き、その後外務省の仕事でアフガニスタンの日本大使館で勤務をした。この後、ちょっと燃え尽きて半年間くらい、仕事も何もせずに、南の島に行ったり……と、過ごした時期もあったが、その後コートジボワールの国連PKOで働いた。20代はずっと現場で過ごし、そして30代になって日本に戻ってきて、JCCPに入り、来年の3月でちょうど6年になる。

20代はとにかく、どの組織でも現場で役立つ人間になる

私が意識してキャリアを積もうとしたのは、高校生の時の、1994年のルワンダの内戦がきっかけだった。当時は、紛争地で働く、イコール国連しか思い浮かばなかった。しかし大学に入ってから、NGOの存在を知り、インターンとして色々聞くうちに、現場の理想と現実のギャップなど、リアルな話を聞くようになった。
大学在学中に決めたことは、20代は組織にかかわらず、どの組織でも現場で役立つ人間になるキャリアを付ける、ということ。自分の専門をコアにして、「この人は、どこでも仕事できるよね」と言われるようにキャリアを積んだ。その中で最初のキャリアはNGOを選ぼうと考えていた。国連や外務省などは大きな組織なので、私の性格上、長いものにまかれて、現場視点が持てないまま、そこの仕事を続けてしまうのではないかと、自覚していたから。自分の性格の弱みを知っていた。もちろん、大きな組織でも現場視点を持って働いている人もいるが、私は自分の怠け癖を知っていたので、外堀を埋めた。
その後、アフガニスタンで外務省の任務に就く時は悩んだ。というのも、当時の私は外務省に対して固定観念を持っており、「官僚機構に取り込まれて自分がぶれてしまうのでは……」と思っていたから。しかし結局は、今までと違う経験を得ることを優先した方が得るものがあると決断した結果、自分にとって貴重な経験になった。
以上、簡単に私のキャリア形成の経緯についてお話したが、今後の国際キャリアの行く末などについては、質疑応答で話したい。有難うございました。

【瀬谷ルミ子(せや・るみこ)氏】

1977年生まれ。中央大学総合政策学部卒。日本紛争予防センター(JCCP)事務局長。JCCP事務局長として、南スーダン、ソマリア、ケニアなど紛争地に展開する現地事務所と現場での平和構築事業を統括。紛争地の住民・組織の能力強化を通じ、「被害者」を「問題解決の担い手」とすることで、治安の改善、社会的自立、和解の促進を実践。2009年NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」出演。2011年に『職業は武装解除』(朝日新聞出版)を上梓。