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文学部
「セネガルにおけるスーフィー教団の歴史と現状に関する調査-アフマド・バンバとムリッド教団を中心に-

文学部人文社会学科 東洋史学専攻 4年
末野 孝典

1.活動動機

 私は3年生の夏頃に卒業論文のテーマを「西アフリカにおけるイスラームと現地信仰の連関性―アラビア語著作を中心に―」に決めた。今思い返せば、その当時読んでいた西アフリカ社会の宗教知識人をテーマに扱っていた本と同時並行に、中央アジアにおけるイスラームとアミニズムについて述べた本を読んでいたことが大きく関係しているように思える。また大学入学する以前からアラビア語やイスラーム世界に興味を持ち、1年生の頃から今まで下手なりにでも取り組んできたアラビア語を卒業論文にも生かしたい、という思いもあった。

 それからしばらくの間、先行研究を整理していくと、自分の卒業論文のテーマに関する日本語研究文献の数が少ないばかりか(勿論、西欧諸国、アフリカ諸国の研究者によって書かれた外国語文献は一定数存在する)、肝心の西アフリカ社会について書かれているアラビア語文献が日本国内にはほとんどないことがわかった。それならば実際に現地に赴き、史料を収集するしか方法がない。そこで私は初めてアフリカの大地を歩むことに決めた。

 2014年西アフリカの至るところでエボラ出血熱が流行したため、昨年は渡航を断念したが、今年の5月頃にエボラ出血熱は終息した。行くなら今しかないと思い、西アフリカ地域でも比較的に政権が安定しているセネガルを選択した。

 セネガルは、国民の約94パーセントがイスラーム教徒(ムスリム)であり、彼らのほとんどはスーフィー教団に帰属している。国内には、大きく分けて4つのスーフィー教団すなわちティッジャーニ―教団、ムリッド教団、カーディリー教団、ライエン教団が存在している。国内のムスリム全人口に対する各教団の信徒数の内訳は、ティッジャーニ―教団が約50パーセント、ムリッド教団が約30パーセント、カーディリー教団は約15パーセント、ライエン教団は約2~3パーセントである。

 このうちムリッド教団は、アフマド・バンバ・ムバッケ(1853~1927年)〔以下、適宜バンバと略す〕を開祖とするセネガル国内で生まれたスーフィー教団である。国内最大の信徒数を擁しているティッジャーニ―教団は、18世紀後半にアルジェリアにおいて、アフマド・ティッジャーニー(1737~1815年)によって創設された教団であり、19世紀における一連のジハード運動のなかでセネガルにも普及していった。またティッジャーニ―教団はセネガル国内で民衆から支持を得ると、マーリク・スィ(1855~1922年)を開祖とする分派とイブラーヒーム・ニヤース(1900~1975年)を開祖とする分派が生じた。

 そこで、私はセネガル国内で二大潮流とも言えるティッジャーニ―教団とムリッド教団を調査することにした。

2.目的

 今回の調査の目的は以下の3つである。1)西アフリカ内部で書かれたアラビア語ないしはアラビア文字が使われている現地語の史料を収集すること。2)モスクと聖者廟の観察を通して、民衆達の信仰形態を分析すること。3)実際に現地に足を踏み入れ、その社会の実態を肌で感じること。これら3点を重点に置き調査を行った。

3.活動内容

 今回8月7日から9月9日の期間を調査期間とした。

 訪問した都市は、ダカール、チエス、ティワワン、トゥーバ、カオラックである。

 各都市への移動はセットプラスと呼ばれる乗り合いタクシーを使用した。セットプラスとは「7席」を意味するフランス語である。後席は狭く大柄な女性と相席になると移動時間は大変厳しい。日本の長距離移動バスとは異なり、目的地に着くまでは基本的に休憩はないので、乗車前に腹ごしらえとお手洗いは済ませておく必要がある。都市内の移動は主にタクシーとバスを併用した。

 まずダカールに1週間ほど滞在し、現地に順応することに励んだ。初めは高揚感に支配され、体調の変化に気付かなかったのだが、セネガル滞在5日目に目眩と腹痛が襲い、すぐさま病院に駆け込んだ。診断の結果、腸炎ということがわかり、薬を服用しながら調査を続けることになった。

 次にマーリク・スィの聖者廟のあるティワワンに向かうため、一先ずダカールを去った。だが、ティワワンにはホテルがないため、ティワワンから比較的に近いチエスに滞在することにした。ティワワンは小さな町であった。マーリク・スィがフランス植民地行政当局と一定の距離をとり、関与することがなかったというのも頷けた。そしていよいよマーリク・スィの聖者廟やモスク内部へ踏み入れようとした時、信徒の方にムスリムの正装をしなければ入場を許可しないと言われたため、残念ながら断念することになった。しかし、モスク近くにアラビア語の書店を二点見つけ、マーリク・スィに関する本を数冊購入することができた。

 トゥーバは、セネガルで二番目に多い人口を抱える街である。この街はムリッド教団の聖地である。セネガル国内からだけでなく、ガーナ、ナイジェリア、モーリタニアなどの西アフリカ地域の信徒達もこの地を巡礼しているのは大変興味深かった。

 またトゥーバの中心に位置するのが、巨大なモスクである。調査前に、写真でこの壮麗なモスクを一目見たときから、この地を訪問するのを楽しみにしていた私であったが、実際にこの地を訪れてみると、写真で見たモスクの姿とは大きく異なっていた。モスクは改修工事中であったため、壮麗というよりはむしろ簡素なイメージをモスクに対して抱くことになった。サリュー氏にモスク内部を案内してもらった。建物内部は改修工事が完了した部分は色鮮やかな装飾が施されており、モスク全体の改修工事が終われば、あの壮麗なモスクになることは容易に想像できた。また機会を改めてリニューアルされたモスクを見たい。

 モスク付近には、使徒の奉仕者図書館があり、ここにはアフマド・バンバの後継者や有力シャイフ達の手によって書かれたアラビア語史料が数多く蓄積されている。勿論、ムリッド教団の開祖であるアフマド・バンバの著作集も存在している。

 さらに、より私の興味・関心を引いたのが「バイファル」という存在であった。バイファルはバンバの一番弟子と言われるイブラ・ファル(1858~1930年)が作った集団である。バンバがイスラーム諸学に対する知識を積極的に獲得する姿勢を見せていたのに対して、イブラ・ファルは敬虔なムスリムとしてはあり得ないような行動、すなわち日々の礼拝や断食の不実行、飲酒などをおこない労働に重点を置いた。しかし、バンバに対して絶対的服従を説き、「労働の代わりに礼拝や断食をしない」というイブラ・ファルの思想は、セネガルの民衆の間にも受け入れられ、彼の風貌、行動を実践するバイファルと呼ばれる集団が形成されていた。

 カオラックは、ハエとゴミの街という異名があるように衛生面はお世辞にも良いとは言えない。だが私はこの街が好きである。人々は大変優しく、特にホテルのオーナーは昼食をお金のない私にご馳走してくれることが数回もあった。

 今回の調査の最大の収穫は、ティッジャーニ―教団の現シャイフであるティッジャーニ・シセ氏(1955年~)と巡り会えたことであろう。カオラックから数キロ離れたメディナ・バイ地区にあるシャイフ・アル=イスラーム・アル・ハーッジ・イブラヒーム・ニヤース師図書館の場所を探し求め、現地の人々に尋ねまわっていたところ、私は或る一人の現地ナビゲーターを見つけた。彼の指示に従いながら、地区内を歩きまわると、全く関係のない荘厳な住宅のなかに招待されたのである。どうやら私と現地のナビゲーターとの意思疎通の不具合が思わぬ幸運を呼び寄せたのであった。

 シセ氏や彼のまわりの信徒達にセネガルを訪問した理由を述べると、快く引き入れてくれた。シセ氏は、私が調査対象の人物として選んだイブラ―ヒーム・ニヤースの道統を受け継ぐ人物であり、私がイブラヒーム・ニヤースについてのアラビア語の書籍を収集している旨を彼に伝えると、彼は自らの書斎の中からイブラヒーム・ニヤースに関する本を数冊取り出し、物惜しみもせずに私にプレゼントしてくれた。

 再びダカールに戻り、第1週で確認していたアラビア語の書店を訪問し、必要に感じた本を数冊購入した。その後、ライエン教団に関するモスクを案内してくれると地元住民に言われ、ダカール市内を散策することにした。ヨフ地区にあるライエン教団の開祖リマーム・ライの聖者廟を見たとき少しばかり興奮した。リマーム・ライは開祖となる以前に漁業を営んでいたことも配慮してのことなのか、海の近くに聖者廟とモスクが建設されていたのが印象深い。

4.調査の感想と今後の課題

 約一か月間、セネガルに滞在したが、一国に一か月以上も滞在した経験は初めてであり、現地滞在中に多くのトラブルに見舞われた。だが、いざ調査が終わってみれば苦労よりも充実観のほうが大きい。やはり一番の目的であったアラビア語史料を一定数収集できたことや西アフリカにおけるモスクの特徴を考察する機会を得たことがこうした充足感を支えているのだろうか。

 今回の調査を通して、「バイファル」という特異な存在を目の当たりにしたとき、また住居の壁に描かれたバンバ、イブラ・ファル、イブラヒーム・ニヤースなどの肖像画や自動車に貼られた彼らのステッカーを見たとき、自分が今まで抱いてきた「イスラーム像」は脆くも崩れ去った。

 1日5回の礼拝もせず、酒を飲むことも意に介さず、バンバへの絶対的服従を説くバイファルは、我々非ムスリムの視点から見ても異質な存在であるが、このことはイスラーム世界内部でも同様であろう。また街の至るところにある聖者達の肖像画は、厳格なシャリーアが遵守されているサウディアラビアでは絶対に見ることはないだろう。以上の二つの例は、我々が無意識のうちに抱いてきたイスラーム像が偏見に満ちていたとも言える。世界は多元的であってしかるべきであり、イスラームそのものを今までよりも広く捉える必要性を教えられた気がする。この点を十分考慮して卒論執筆に励みたい次第である。

 近年、疫病の流行や政情の不安定さから中東やアフリカ諸国に足を踏み込む機会は減少傾向にあるなかで、今回実際に西アフリカでのフィールドワークを行なえたことは大変実り多い体験となった。末筆となってしまい大変恐縮ではあるが、最後に中央大学に深謝の意を表したところで一先ず擱筆する。