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法学部
【活動レポート】磯田 芙美 (法律学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(49) 北アイルランドで紛争解決を考える-アイルランド島での4週間

9月に帰国してから、3ヶ月が経過しようとしている。帰国してすぐ授業が始まってしまったため、報告書は書いたものの、日々の生活に押し流され、北アイルランドでの経験がいつの間にか未消化のままになっていた。今回このような形でみなさんに私の活動を報告する機会をいただき、本当に感謝している。タイトルにも書いたように、今回の旅の目的は北アイルランド紛争の事例を通して、紛争解決とはどういうものなのか、考えることだった。私は将来紛争の解決に携わる仕事がしたい。なぜなら世界をもっと平和にしたいからだ。単純だと笑われてしまうかもしれないが、私は大真面目だ。今まで海外に行ったことがなく、恵まれた日本でぬくぬくと暮らしている自分。ニュースでは世界各地の紛争が報道されているのに、これでいいのかという思い。そんなことを考えていたら、いつのまにか日本から16時間もかかるアイルランドに来ていた。ここでは、アイルランド・ダブリンでの3週間、北アイルランドでの約5日間を通して私が得たものを報告させていただきたいと思う。

「ついに来た!」

4月から語学学校とメールでやりとりし、四六時中アイルランドのことを考えてきた。ダブリン空港で出迎えのスタッフに会ったときは小さな達成感を感じた。3週間という短い期間だったが、ホームステイをしながら、私立の語学学校に通った。正直、私は英語の勉強が嫌いで、高校までは最低限の勉強しかしていなかった。大学に入学して、自分の興味が変化するにつれ、何度そのことを後悔しただろう。今の社会では英語は必須の「道具」である。3週間ではとても飛躍的な上達は見込めなかったが、北アイルランドで1人5日間過ごすことを考えると、英語に慣れておく必要があった。ホストメイトに助けられ、なんとか1人で買い物をし、交通機関も使えるようになり、英語で生活することに慣れていった。
アイルランドでの毎日は私にとって新しいことだらけ。話し出せばきりがない。残念だが今回それは割愛して、本題の北アイルランドでの出来事について書きたいと思う。

いよいよ北アイルランドへ

プロテスタント居住区のmural

ダブリンからバスで2時間半。入国審査もなく、いつ国境を越えたのかもわからなかった。しかしバスを降りたとき、確かに「アイルランドとは違う国に来た」と感じた。ダブリンは観光客も多く、いつも陽気で華やかな町だった。天候が悪かったこともあるが、北アイルランドの首都・ベルファストは、人通りが少なく、陰気な町に見えた。北アイルランドの人口は2007年現在で約176万人、年間の観光客は194万人、治安が回復するにつれて、観光客は増えているそうだ。観光と言ってもベルファストには、おもしろいものはほとんどない。民家のすぐ裏にそびえるピースラインにも関わらず、ベルファストのいたるところに観光バス案内のスタッフが立っており、ベルファスト市内を2時間程度で巡るバスツアーが30分に一本運行されている。私を含め、観光客が二階建てバスから乗り出してカメラを構える場所は決まっている。民家の壁に書かれた大きな政治的壁画(mural)、そして民家の間に突如姿を現す刑務所の壁のようなピースライン(プロテスタントとカトリックの居住区を分離する壁)を見たときである。これらは主に紛争当時、衝突が激しかった北西の地区に集中している。北アイルランド紛争は、1998年のベルファスト合意で、終結した。確かに全面的な対立は終わり、2005年にIRAが武装解除したが、実際にはごくたまに両者の間で暴力事件が起きる。人々の生活にはまだ深い紛争の爪跡が残っている。

北アイルランド紛争とは

北アイルランド紛争とはなんなのか。それを説明しないと対立の深さをわかっていただけないだろう。そもそもアイルランド島はカトリックを信仰する1つの国だった。イギリス(プロテスタント)に侵攻され、オレンジ公ウィリアムがボイン川の戦いで勝利すると、アイルランドは完全にイギリスに支配される。1921年、独立戦争を経てアイルランド南部26州は、アイルランド自由国として分離独立する。この時北部6州(アルスター地方)だけがイギリスに残った。アルスター地方はエリザベス1世の統治下、イギリスの侵攻に対して最も強く抵抗した地域だった。キンセールの戦いでイギリスが勝利すると、イギリスはアルスターへのプロテスタントの人々の入植を奨励する。そのため北部6州は南部よりもプロテスタントが多く、イギリス化した。1641年、イギリスに優遇されるプロテスタントに対して不満を抱くカトリック市民は、移民を虐殺した。それに対してイギリスから送られたクロムウェルの軍団により今度はカトリックが虐殺される。その長年の恨み、相互の不信が爆発したのが、北アイルランド紛争なのである。南北統一を目指すアイルランド先住民の子孫はナショナリストと呼ばれ、イギリスとの関係を絶ちたくない移民の子孫は、ユニオニストと呼ばれる。つまり北アイルランド紛争は確かにカトリックとプロテスタントの対立なのだが、極めて歴史的、政治的なナショナリストとユニオニストの対立なのである。
1960年代に入ると、カトリックに対する雇用差別などが顕在化し、公民権運動という形で、ナショナリストのデモが増加する。これに対しイギリスはデモ隊に発砲、1972年に血の日曜日事件が起き、無防備な市民14人が犠牲となる。この事件以来、暴力は激化していく。イギリスは双方の対立を避けるために居住区の間にピースラインを建設した。ピースラインは両者の接触を制限したが、その壁がまた、隣人への不信を生み出した。壁ごしに火炎瓶が投げ込まれるようになったのだ。互いの居住区を主張するために、ナショナリスト居住区の縁石はアイルランド国旗の3色で塗られ、ユニオニスト側はユニオンジャックの赤、白、青で塗られている。それらは今でも消されることなく残っている。目に見える暴力はない。ガイドブックにも、安全だと書いてある。
私はまずベルファストにあるリネンホール図書館で、紛争の概略が英語で書いてある本を探した。日本では英語の文献をなかなか読む暇がなかった。しかしInstitute for Conflict Research(ICR)でインタビューをする予定だったので、英語で理解しておかなければならい。ここでも英語の大切さを思い知ることになった。

デリー/ロンドンデリー

血の日曜日事件の現場近くの壁画

北アイルランドでの3日目、ベルファストに並んで対立が激しかった町、デリー/ロンドンデリーに向かった。なぜ2つ名前があるのかと不思議に思われるだろう。もともとの町名はDerryだった。イギリスに侵攻されてからLondonをつけてLondonderryという名前に変更された。ナショナリストはその名を屈辱的とし、デリーと呼ぶのだ。現地で会った日本人に、デリーに行くとき(片道2時間)は寝ないで道路標識を見ておけと言われた。実際に標識を見ていたところ、いたるところで、ロンドンの部分が白く塗りつぶされている(Londonderry)ことがわかった。犠牲者の似顔絵を描いた壁画/デリーにてナショナリストの仕業だろう。いつ塗られたのかはわからない。私達にとっては一見どちらでもいいことが、彼らにとっては大問題なのだ。
デリーは17世紀に作られた城壁に囲まれた、美しい街だ。町の中にはショッピングモールもあり、小さいながら賑わっている。しかしここでも目に飛び込んできたのは、城壁に向かって自分達の存在を主張するかのような壁画の数々だった。実際に壁画のある地区を歩いてみると、その大きさに圧倒された。近くには血の日曜日事件のモニュメントがある。当時ナショナリストのデモや集会が盛んに行われた場所だ。壁画のある家から子供が出て来た時、平和になったのだと初めて感じた。複雑な気持ちになり涙が出そうになるのを必死にこらえ、帰りのバスに乗った。デリーは4週間の中で最も印象的な町だった。

最後の山場-ICR

4日目、とうとうICRを訪れる日が来た。1時間歩いてやっと見つけた建物は低所得者の多い北西の地区、まさに対立が多かった地区の入り口にあった。出迎えてくれたのは、私のつたない英語のメールに毎回親切に答えてくださっていたジョンさんだった。ICRは政府等の委託を受けて紛争後の市民生活を調査している団体だ。何を質問するかリストも作っていたのに、日々真実を知り、紛争についての印象が変化し、質問がうまくまとまらなかった。しかもアイルランドの英語は早口で聞き取りにくい。インタビュー自体についての反省は多々ある。彼は私にわかるように、紙に書きながら現在の北アイルランドの状況を詳細に語ってくれた。中でも最も驚いたのは、1998年のベルファスト協定の後、ピースラインは減るどころかさらに建設されたということだ。壁がないと治安が保てない。それが現状なのだ。
雇用は政府系の機関によって改善された。今ではカトリックとプロテスタントの人々が平等に職場で肩を並べている。教育についても詳しく話していただいた。ジョンさんが学校に通っていた頃ほど、宗教の違いによるいじめはないが、未だにプロテスタントの子供は公立学校へ、カトリックの子供はカトリック系の私立の学校へ行く傾向が残っている。協同教育の動き(カトリックとプロテスタントの子供達が一緒に学ぶ学校の設立など)もあるが、協同学校に通っている生徒は、北アイルランド内全生徒のたった5%だという。

解決に向けて

民族や宗教による対立の解決が難しいことは「知っていた」。しかし今回その難しさを「思い知った」という感じだ。対立の根深さは想像を超えていた。政府レベルでは協定が結ばれ、機会均等のための機関を作っているが、ピースラインは今もカトリックとプロテスタントの居住区を分断している。解決したのではなく、口をつぐむことで平穏を保っているのだ。それだけ平和への思いが強いとも言える。
ジョンさんのお話を聞いて紛争解決に向けての動きをいくつか感じとることができた。
長期的な紛争解決の糸口として、私はまず協同教育に注目している。今はまだ直接暴力を経験し、お互いに対する「不信」をぬぐいきれない大人たちがいる。その不信をぬぐうことは難しいが、次の世代に不信を抱かせないような教育はできるのではないか。長い時を要するが、まさに「時間が解決してくれる」ということかもしれない。そのためにはやはり大人が「不信」を押し殺し、次世代のための教育を考えなくてはならない。

ホストファミリーの親戚が集まり賑やかな日

目下の解決策として考えられるのは、「Irish」でもない「British」でもない「Northern Irish」というナショナリティーを創出することだという。ダブリンでホストファミリーや教師に話を聞いたところ、アイルランド側に統一したいという様子はない。南北統一の可能性は低いように思える。統一できない以上どうすればナショナリストの気持ちは治まるのか。結局双方の主張を叶えることはできない。そのため解決策として最も注目されているのは「北アイルランド」としてのナショナリティーを確立することなのだ。具体的にはスポーツでその傾向が見られる。差別があったときカトリックの選手はサッカーの北アイルランド代表になれなかった。今では宗教は関係なくメンバーが構成され、北アイルランドの人々全員が、北アイルランド代表を応援している。ラグビーの「北アイルランドチーム」を作る動きもあるようだ。インタビューの最後に、ジョンさんに「北アイルランドとしてのナショナリティーを作ることは可能か」と尋ねた。彼は「I hope so.(可能であることを願う)」と言って複雑な笑みを浮かべていた。

おわりに

今年のノーベル平和賞に前フィンランド大統領のアハティサーリ氏が選ばれた。彼は北アイルランド紛争解決にも携わった、和平交渉のプロだ。彼のような人々を含めた政府レベルでの解決、法整備は重要である。しかしまだピースラインは残る。北アイルランドのような長い歴史の中で積み重なった市民の間の不信を今すぐ払拭することは難しい。その中で、第3の道として北アイルランドという国民意識を作ることは、今なし得る最良の手立てだと思う。妥協を見出せない限り、双方が納得する第三の道を探すしかない。そしてこの先の世代に、相互の「不信」を抱かせないことが重要なのだ。結局のところ紛争は10年やそこらでは解決しない忍耐と多大な時間を要するものなのだ。
今いろいろな葛藤を経て、国家公務員Ⅰ種を目指して勉強を始めた。自分の勉強不足、語学力の無さを思い知ったので、今の自分が試験に受かるとは到底思えない。でも1年前の自分もアイルランドに本当に行けるとは思ってもいなかった。今回の活動を通して、目標を持って、それに向かって努力すれば必ず何かしら結果は出るという自信を得た。その自信が今の自分の活力になっている。
最後に、「やる気応援奨学金」、今回の活動に手を貸してくださった先生、先輩方、両親、そして旅の途中で出会った全ての人に感謝したい。

草のみどり 223号掲載(2009年2月号)

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