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法学部
【活動レポート】足立 明子 (法律学科2年)

「やる気応援奨学金」リポート(40) ロスで外交インターンシップ 日系人に学んだ平和の大切さ

はじめに

私は昨夏、多くの方々のお世話を得て、法学部「やる気応援奨学金」の下、ロサンゼルスの全米日系人博物館において研修をさせていただいた。
以下、インターンシップの活動内容と共に、そこを通じて私が得たものを示すことによって、お世話になった方々への感謝の気持ちに代えたいと思う。

インターンシップへの道程

私が今回全米日系人博物館でのインターンシップを希望した源に、昨年度「やる気応援奨学金・語学留学部門」によって、オーストラリアへ語学留学をし、そこで経験したことと、そこで考えたことがある。

ほぼ初めての海外経験であったが、そこで私は、自分が日本人である、ということを非常に強く感じた。日本にいる時は日本という国や、自分が日本人であることなど意識したことはなかったが、周囲の留学生が日本について褒めていると自分のことのようにうれしく思い、広大なオーストラリアの大地をトヨタやホンダら、たくさんの日本製の車が走っているのを見ると自然と誇らしさを感じるといった経験を通して、自分が日本人であるということを強く感じさせられたのであった。

このような経験を通して、私は日本とは、日本人とは何か考えるようになり、また将来日本のために働きたいと考えるようになった。そのようなことを考えていたころ、この全米日系人博物館でのインターンシップを知った。「日本の外から日本を眺めれば日本をよく見ることが出来るのではないか」、また「国際交流の発達していなかった時代に、日本とアメリカのはざまで生きた日系人の方々は『国』や『日本人』ということをどのように考えていたのか。彼らの歴史や人生を知れば、自分の疑問が解決するのでは」と思い、この全米日系人博物館での研修を希望した。

全米日系人博物館では、主に第二次世界大戦中に日系人が受けた差別や収容所の様子、戦線へ送られた方々の遺品などを展示している。このことをよく理解するためには、まず日本人の戦争体験を知ることが必要であると考え、研修の前に東京大空襲で犠牲者となった無縁仏35000人を祭っている東京都慰霊堂を訪れた。

東京都慰霊堂は両国にあり、国技館から徒歩5分くらいの所にある。都心ながら、荘厳で何ともいえない重々しい雰囲気が辺りに漂っていた。学校や書籍、メディアなどで戦争テーマは度々取り上げられているが、過去のことだから、と自分の身近に感じられるようで感じられずにいたが、ここを訪れることで、言葉に出来ない雰囲気や犠牲者の無念さを感じ、「戦争はもうしません」と誓い後にした。

そして新たに、異なる国、民族が友好的な関係を作り、永続させるためにはどうしたら良いのかということの手掛かりを日系人の方々との交流を通して、つかんできたいと考えた。

日系人について

1868年にハワイに労働者として渡った契約移民(出稼ぎ)がその始まりとされる。やがて先に定住した男性の結婚相手として、多くの「写真花嫁」(写真のみで結婚を決め、女性が花嫁として労働者に嫁ぐ結婚形態)が嫁いだ。労働者の大半が貧しい農家の二男坊、三男坊であり、大金をため、錦をまとって帰国することを夢みて、彼らはさとうきび畑などの過酷な農業労働に従事した。今と違って、明治、大正の時代である。文化や言葉の壁、人種差別もありその生活はとても厳しい困難なものだった。

その後移民の定着が進むにつれて排日気運が高まり、1908年日米紳士協定が締結され、経済活動が大幅に制限された。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、日系人は敵性外国人であるとして、強制収容所に送られた。その数は12万人に及ぶ。その一方で、約33300人の二世がアメリカ兵として従軍。そして、アメリカ軍戦歴の中最も輝かしい部隊の一つは、この日系人からなる第四四二連隊であることはよく知られている。ちなみに、ドイツ系、イタリア系アメリカ人は収容されていない。

戦後、収容所から解放されるが、「敗戦国の民族」として日系人たちへの差別はむしろ戦前より強まった。更に、収容所に入る際ほぼ財産を失ったため、日系人の戦後は、まさにゼロからの再スタートであった。

日本の発展と日米関係の修復に伴い、日系人のまじめさや作業が丁寧などの評価もあり、現在に至る。

アメリカは自由の国、人種のるつぼ、などと表現されることがあるが、アメリカの歴史は人種差別の歴史でもある。

私が研修をさせていただいた全米日系人博物館は、そうした中で、日系人の歴史の理解を深め、日米間の懸け橋になろうという趣旨で活動を行っている教育施設である。

インターン活動

全米日系人博物館では、主に博物館が作成・所蔵している文献、資料などの簡単な翻訳に従事したり、戦争や収容所経験をした日系人ボランティアたちの話を伺ったりした。博物館にはガイドとして主に60-90歳までのボランティアが常駐し訪問者たちに日系人の歴史に関するレクチャーや展示物の解説を行っている。

全米日系人博物館

事前に日系人の歴史について学んではいったものの、普段はハリウッド映画や洋楽など、アメリカの文化に慣れ親しんだ生活を送っている私にとって、過去に日系人がアメリカから差別を受けたことや、アメリカと日本が戦争をしたことなどは何となく信じ難かったが、実際に収容所体験や戦争当時の話を当事者から聞くことにより、改めてその大変な歴史を実感させられた。今まで学校の授業において学んだ「歴史」とは全く違う、生きた勉強が出来たと思う。

そして、多くのボランティアの話の中でも特に印象に残ったのは、日系二世で元東京裁判B級戦犯通訳の鮫島等さん(86)の話だった。

等さんの父・長三郎さん(1877年生まれ)は鹿児島の出身。1897年、ワシントン州での鉄道工事の作業員として渡米した。サンフランシスコの大地震で北部カリフォルニアの経済が壊滅したのを機に、1910年、ロサンゼルスの北東、パサデナで小さなクリーニング店を開店した。2年後には同郷のつなさんと結婚し、二男二女を設ける。二男の等さんが生まれたのは2階建てのれんが造りの小さな家だった。

「生活が貧しくないといえばうそになるが、食べ物や身なりはいつも考えてくれた」と等さんは語る。

等さんは11歳から14歳までの4年間、加州(カリフォルニア州)毎日新聞を配達した。配達は午後5時、日曜は朝5時。1日わずか数ドルにしかならなかった。15歳になってからは八百屋の配達のアルバイトをし、空いている時間はクリーニング店で父親の仕事を手伝った。給料はすべて父親が取り上げた。

「当時、お小遣いなんて言葉も知らなかった。でも両親の必死に働く姿を見ると、自分も何とか助けてやらないと、と子供心に思っていましたよ」と言う。

1939年、等さんは南カリフォルニア大学へ進学する。

「米国人と対等にやっていくには学問をしなければ駄目だ、と父親は強く言いましたね。何を我慢しても子供たちを大学へやりたいという気持ちだったと思います」と等さん。

父親が取り上げていた等さんのアルバイト料はすべて等さんの学費へ充てられた。ためられたアルバイトの給料は学費の1年分に相当したそうだ。苦学して夢の大学に入学した2年後の1941年12月7日、真珠湾攻撃によって、等さんの生活が一変する。市民権を持つにもかかわらず、等さんは大学を追われ、一家は10日以内に荷物をまとめてアリゾナの収容所に行くよう命じられた。許可された荷物は、1人バッグ2個分。移送されるまでの間に、洗濯機やプレス機、自家用車も手放した。父・長三郎さんは多くを語らなかった。努めて現状を受け入れようとしていたのかも知れない。

「子供を大学にやろうと苦労してきたこれまでの努力は何だったのか、疑問に思ったでしょうね」と等さんは思う。

アリゾナ州ヒラ・リバーの収容所は砂漠の中に立ったバラックだった。夏は猛烈に暑く、冬は凍えるように寒い。等さんはそこで日本語教師として子供たちに日本語を教えた。

その後、等さんは徴兵され、日本語が出来たため情報部員として従軍させられる。

等さんは終戦の直後、10月にGHQと共に東京裁判のB級戦犯通訳として初めて両親のふるさと、日本を訪れた。GHQの本部が入っていた第一生命館の高層階から東京を見回した時、その一面の焼け野原に絶句したという。

「私が聞いていた日本は、こんなじゃなかった。一面、何にもない、焼け野原なんだ。日本はもっと美しい国のはずではなかったのか」
日本人の顔を持つから大学を追われ収容所へ行き、にもかかわらず、アメリカ国籍を持つからアメリカ人としてアメリカのために働く。若く多感な時期に、この矛盾について等さんは何を考えたのだろう。

日系人に関する文献や資料を所蔵

「ごみ捨て場を見ると、何か荷物を背負った若い女性が米軍の捨てた缶詰の中を、木のさじですくって背中に持っていっている。よく見たら、やせておできだらけの赤ちゃんに食べさせているんだよ。老人は飢え死にしてね。僕はそれが本当にかわいそうでならなかった」
ゆっくりとかみしめるように語る顔や声色から、その御苦労が思われ、言葉もなく、涙が込み上げてならなかった。

しかし、過去のことを話すことは、過去のことをもう一回、自分の中でよみがえらせることだ。聞いている私がこんなに悲しいのだから、御本人は出来ることなら語りたくないだろう。

私事で恐縮だが、私の祖母は東京大空襲を経験した。当時小学校6年生の祖母は火の海を逃げ回り、機銃掃射をする米兵の顔は今もはっきり覚えているそうだ。また、その時の火の色、血の色を思い出すから、と戦後60余年間、祖母は赤い色の服は着られないという。国を超えても、戦争はつらい思い出をたくさんの人に残す。外交や政治の大事さを痛感し、自分もこのような悲劇を繰り返さないように何か出来ないか、と思わずにはいられなかった。

等さんは大変穏やかな優しい良い顔をされている。現在、ボランティアのため全米日系人博物館を訪れる時には、娘のリンダさんに送迎してもらっているそうだが、御家族と共に幸せに暮らしているのを見ると、とてもうれしかった。等さんの今後ますますの御健勝とお幸せを心から願う。

日経ウィークパレード前の打ち合わせで

また、ビジネス弁護士事務所所長のヘンリー・オオタ弁護士から、日系人ビジネスマン、弁護士業務などの話を伺う機会があった。ヘンリーさんは輝かしいキャリアをお持ちの方だが、収容所でお生まれになり、4年ほどそこで暮らしたそうだ。幼かったため収容所の記憶はあまりないそうだが、終戦後、敵国民と同じ民族である日系人が表舞台へ立つには真っすぐな道ばかりではなかったという。若いころは、自分が日系人であることを疎ましく思うこともあったそうだが、今はその過去を隠すのではなく、広めることにより、ほかの人にもうあのような過去の体験や苦労をしてほしくないと語っていた。

私の知り合いに在日韓国人の弁護士さんがいる。彼は「金」という韓国の名字で仕事をしているが、在日の弁護士さんは、大半の方が韓国姓を用いず、名字が金ならば金本や金山と改姓して弁護士業務を行っているという。なぜならば、弁護士とは信用がとても大事であり、在日韓国人に対する差別が残る日本において自分が在日ということをカミングアウトすることは業務上、やりにくいからだそうだ。

日本と在日韓国人、アメリカと日系人。事情は少し異なるかも知れないが、マイノリティーとして生きる困難さはどちらも同じことだろう。ましてそれを隠さず、過去の克服と未来につなげようとする姿勢にはとても感動した。全米日系人博物館の支援を続け、貴重な時間を割いてさいてくださったヘンリーさんの生きる姿勢を見られたことは、人生の勉強になった。

総括

私が今回の研修で最も感じたことは、まず1つ目に、戦争はもう絶対に繰り返させてはならない、ということだ。これまで何度も歴史の授業やメディアで声高に叫ばれてきた使い古された言葉であるが、このことを強く感じた。

これまで述べてきたように、私は研修中、戦争を経験された日系二世の方々からその戦中の話を伺う機会を多く得た。アメリカ国籍を持つにもかかわらず財産を没収され強制収容所へ送られた方、最前線に送られ右腕をなくされた方。過去を話すということは、もう一度自分の中でその過去をよみがえらせることだ。つらいという言葉では表し切れない過去を背負いながら生き、こういった悲劇が繰り返されないようにとの思いで80歳、90歳になってもなお次世代への教育活動を行っている。私も含め人は、理不尽なことやつらいことがあると他人を恨みたくなるのに、彼らが皆優しい良い顔をしているのは、他人を恨まず前向きに人生を歩いてきたからではないだろうか。

私はたった7日間という短い間彼らと時間を過ごしたに過ぎないが、苦労を乗り越え今なおそういったつらい歴史を繰り返さないように、と願う彼らの話やその時の顔を思い出すと、戦争はどんなことがあってもあってはならないな、と思わずにはいられない。習慣の違い、言葉の違い、戦争によってその壁は更に高くなってしまう。異なった価値観や習慣の人が分かり合うのは困難で時間も掛かるだろうが、日系人の方々のあの悲しい目を思い出すと、どんなに大変でも外交や話し合いによって衝突は防がねば、と思う。将来外交官になって、日本のため、世界の平和のために働きたいと改めて強く思った。

また、この研修を志望した際の課題であったアイデンティティーについてであるが、私はこれまで、アイデンティティーというものについてややネガティブなイメージを持ってきた。なぜならば、争い事が起きたり人との間に障壁が出来てしまうのは、各個人の中にアイデンティティーという他人とは考え方や性質を異にする要素によって出来てしまうと考えてきたからだ。違いがなければ争い事なんて起こらないし、全員一致で何でも決まるのに、と思ってきた。しかし、今回の研修によって、アイデンティティーについて否定の部分ばかりではない、と思うようになった。

アイデンティティーとは、私が思うに各個人の中に知らずに築かれた自分自身の考え方や物の見方、とらえ方を指すのではないかと思う。日系人の方々を例に取れば、確かに彼らはアイデンティティーによって、差別され御苦労をされたが、逆にアイデンティティーによって、逆境に立たされても「大和魂」を胸に「日本人」のアイデンティティーを誇りに、頑張ったという。

さまざまな文化、習慣、考え方、言葉など人との違いを挙げれば無限であるが、こういった違いを認め、互いに協力し合って皆が仲良く幸せに生きていける世の中になったらと願わずにはいられない。自分も将来、そういった世界造りのために貢献出来る人間になりたい。

結びに代えて

私の研修は最初に述べたように、多くの方々に支えられて実現し、内容の充実を得たものでありました。このインターンシップを終えた今、それらの人々への感謝の気持ちでいっぱいです。そして、今これからの私の営みを通して、それらの御恩に報いたいと、強く決意しています。

温かく御指導してくださった柳井俊二先生、宮野洋一先生、折田正樹先生を始めとする外交インターンシップ担当の先生方、事務スタッフの方々、そして研修先のヒラノ館長、海部優子副館長を始めとする受け入れ先の皆様、本当にありがとうございました。

草のみどり 214号掲載(2008年3月号)

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